第百十話「前準備」
いやいやいや……え?
なにコイツ勝手に風呂場入ってきてんの?
仮の兄妹をやってるとはいえ、実質的には赤の他人の少女が入ってる風呂場へ本人の了承もなしに入ってくるとか、これ完全に犯罪じゃね?
犯罪者じゃね?
……よし、逃げよう。
「リーズ、背中洗ってあげるよ」
「あ、私出ます」
「いいからいいから」
「いえ、ホントにいいです。ごめんなさい」
「――洗ってやるって言ってんだろ!!」
ダニエルは俺の髪の毛を引っ張り、そのまま風呂場の床に叩きつけた。
「人が下手に出てりゃいい気になりやがってこのハイエナが!」
俺の頭を正面から掴み、再び風呂場の床に叩きつけるダニエル。
「母上があんなで、ただでさえ外聞が悪いのに、どこの馬とも知れないハイエナを養子になんて加えたら、どうなると、思ってるんだよ!!」
ガンガンガンガンガンと、ダニエルは俺の頭を何度も何度も繰り返し、持ち上げては床に叩きつけ、持ち上げては叩きつけた。
「はぁ……はぁ……はぁ……死んだ、か……?」
「…………」
「いや、この歳でも冒険者だからな。念には念を……」
ダニエルはそう言って俺の首に手を掛け、力を込め始めた。
「……そうか、とことんやるつもりだな、テメェ」
「なっ……お前……!?」
俺はダニエルの両手首を掴み、カッと目を見開いた。
「このまま立ち去るんだったら引き続き無視してやったんだが……そういうことなら付き合ってやるよ。とことん、もう嫌だってなるぐらいにな!」
「なにが……」
ダニエルの両手首を思い切り握り締める。
すると、握り締めた部分から両手首がちぎれた。
「ぐわああぁあぁあぁぁぁ!?」
「うるせぇ黙れ」
みぞおちを狙った軽いボディーブローでひとまず絶叫を止める。
「ぐぶっ!? ぐっ……お、お前……こんなことして、どうなるか……!」
「両手首がない状態でその威勢のよさは感心するものがあるぜ」
俺はそう言いながら立ち上がり、ダニエルに向かって治癒魔法を掛けた。
するとダニエルのちぎれて落ちた両手が手首にくっつき、みるみるうちに傷口が塞がっていく。
「なっ、なっ、なっ……なんだこれは!?」
「万が一にでも死なれちゃ困るからな。だが、これで終わりだと思うなよ?」
やり過ごせるようだったらやり過ごそうと思っていたが、どうもそれは無理っぽいからな。
やるならとことん、徹底的にやる。
『あのぉ、大丈夫ですか?』
その時、風呂場のドアを隔てて脱衣所からメイドの声が聞こえてきた。
「おっ……ぎゅっ……」
「大丈夫だよー!」
俺はダニエルの首を絞めて黙らせてから大きな声で返答した。
『あ、あれぇ? 先程こちらからダニエル様の声が聞こえたような気がしたんですが……』
「あー、そういえばさっき、脱衣所のトイレで叫んでる声が聞こえたよー! 今はどこにいるか知らないけどー!」
『あっ……そ、そうですか、すみません変なこと聞いてしまって。失礼しました』
「はーい」
脱衣所からメイドの気配が離れていく。
「かっ……はっ……」
「ふぅ、危機一髪」
「し……ぬ……」
「あー、今から手を離すけど、大声出したら喉潰すから」
俺はそう言ってからダニエルの首を掴んでいた右手を開いた。
「ぶはぁっ! はぁ、はぁ、はぁ……き、貴様ぁ……」
「おーおー、元気だなぁ。でもよ、まずは風呂を出て着替えようぜ。俺はおまえと素っ裸で取っ組み合いなんぞしたくないからな」
「くっ……」
俺が先に風呂場から出て服を着ると、しばらく経ってダニエルも風呂場から出てきて服を着始めた。
「貴様……ただで済むと思うなよ……」
「んー、どっちかっていうとそれ、俺のセリフなんだけどな。ほれ」
「ぎゃ!?」
左手のひらを向けてダニエルに紫電を放ち、気絶させる。
「あが……が……が……」
「さて、と」
ビクンビクンしてるダニエルを無限袋から出したロープで縛り、肩に担ぐ。
そしてそのまま二階の自室へと運んでベットの下に放り込んだ。
そのあと俺は同じく二階にあるダニエルの部屋のドアを風魔法で内側からカギを掛け、一階の居間へと移動した。
居間では伯爵と夫人が紅茶を飲みながらくつろいでいた。
「あら、リーズ。アナタにしては随分と長風呂だったわね」
「ええと、そうだった?」
「そうよ。……ああ、でもやっぱり化粧はしていないのね。ちゃんとした淑女として、夜でも多少の化粧はしてほしいものだけれど」
「家族の前だ。いいじゃないかマリアンヌ。それに、化粧をしなくともリーズは十分綺麗だよ。ところでリーズ」
「なに?」
「ダニエルを見なかったか? どうも姿が見当たらないようだが……」
「お兄ちゃんならさっき廊下で会ったけど、『今日はもう寝る』って言ってたよ。ずっとトイレにこもってたみたいだから、お腹壊したのかもね」
「なんだ、そうだったのか。ふむ……しかし、なにで腹を壊したのだろうな? 今日の夕食で当たりそうな食材は特になかったと思うが……」
「アナタ」
「おっと、淑女二人の前で話題にすることではなかったな」
そう言って笑う伯爵の前で、俺は目を擦りながら欠伸をした。
「おや、リーズ。珍しいな。もう眠いのか?」
「うん。なんか疲れちゃって……私、今日はもう寝るね?」
「あら残念。一緒にカードをやろうと思ったのだけれど」
「ごめんねお母さん。また明日ね」
「ええ、おやすみなさいリーズ」
「おやすみなさい、お母さん」
「おやすみ、リーズ」
「おやすみなさい、お父さん」
俺は伯爵と夫人に寝る前の挨拶をして、自室に戻った。
ベットの下を覗くと、ダニエルは身動きせずまだ白目を剥いていた。
目が覚めた時のため口にも縄を噛ませておいたが、どうやら心配は杞憂だったようだ。
「よし」
前準備は上手くいった。
ここからが本番だ。
俺は自室のドアにカギを掛けた。
そしてダニエルを肩に担ぎ、部屋の窓から風魔法で上空へと飛び立っていった。