第百五話「リーズ」
「信ずる神が異なるという理由で差別をすることなかれ。その神もまた、私である」
「…………」
「人よ、歩み寄るがいい。だが決して自他がひとつになれるとは思わぬことだ。天と地が決してひとつになることはないように、自他もまた、決してひとつになることはない」
「…………」
「私を呼ぶことなかれ。私は……って、お母さん?」
「…………」
夫人はいつの間にかテーブルの上に置かれていた枕に頭を乗せ、スヤスヤと気持ちよさそうに眠っていた。
寝てる。完全に熟睡してるよこれ。
「お静かに、お嬢様」
「ジョエルさん、これって……」
「ジョエル、と呼び捨てにしてください。奥様は大学の教科書を朗読されると高確率でお休みになるのです」
「はあ……」
自分で教科書読んで聞かせてって言ったくせに……この人は多分、大学に行っても授業中寝てるタイプだな。
しかし、どうしよう。
俺の仕事は夫人の話し相手なのに、その相手である夫人が寝ているんじゃやることがない。
うーむ……そうだな、今のうちに足りない情報を補うとするか。
「では、ジョエル」
「はい、お嬢様」
「昔の私について教えてくれる?」
その頃ジョエルはこの屋敷に居なかっただろうが、彼は今の夫人を支える役割を少なからず担っているのだ。伯爵からリーズに関しての話ぐらいは聞いているだろう。
「かしこまりました。直接、昔のお嬢様に会ったことはございませんが、ワタシの知りうる限りをお伝え致します」
俺は夫人が寝ている間、ジョエルから伯爵令嬢リーズの情報を聞くことにした。
◯
伯爵令嬢リーズは、活動的で天真爛漫な娘だったという。
木登りが好きだったとか。
釣りが好きだったとか。
剣術が好きだったとか。
あまり貴族令嬢らしくない振る舞いが特徴的で、元来勉強もあまり好きではなく大学に行くのも本当は嫌々であったとか。
そんな伯爵令嬢リーズの様々なエピソードを聞いている間に時は経ち、時刻は夕方近くになっていた。
「……ん……リーズ……?」
「あ、お母さん。起きた?」
「あら……私、寝てたの?」
「うん、大分ね」
随分と幸せそうに寝ていたので起こさないようにしていたのだが、まさか俺の仕事時間いっぱいまで寝ているとは思いもしなかった。
だがおかげで伯爵令嬢リーズのイメージが大分固まった。
リーダーから徹底指導を受けた『傭兵イグナート』作戦のおかげで本来の自分とかけ離れた演技をすること自体は慣れてるから、これからはきっと今日よりスムーズに夫人の話し相手をすることができるだろう。
「そうなの……ごめんなさいね、せっかくリーズが帰って来てくれたのに……」
「大丈夫だよお母さん。明日も朝から大学だから今日はもう帰らなきゃいけないけど、私、明日も来れるから」
今のところ他に訪問者の予定は無いらしいからな。
伯爵の言伝によると『できる限り毎日来てほしい』とのことなので、しばらくは通うつもりだ。
「本当に? よかった! じゃあ明日も楽しみに待ってるわね!」
「うん。それじゃ、またね」
「ええ、また明日」
◯
それから俺は連日、十三時頃に伯爵家を訪れて、十八時頃まで夫人と一緒に時を過ごした。
中庭で雑談をしながら紅茶を楽しんだり。
屋敷のホールでダンスを教えてもらったり。
執事も含めてカードゲームで遊んだり。
ヴァイオリンのような楽器を教えてもらったり。
二人で色々なものを絵に描いたり。
刺繍を教えてもらったり。
時々発作的に初日のような癇癪を起こすこともありその度にかなりヘコまされたが、次の日には夫人がすっかり前日の出来事を忘れているということもあって、日々なんとか夫人の相手を続けることができた。
ジョエルによると、どうやら俺は今まで娘役で来たどんな女の子よりも夫人との相性がいいらしい。
……歴代で一番相性がいいと言われる俺ですら時々かなりヘコまされることを考えると、今までの女の子が一週間以上続かなかったというのも頷ける話だ。
それに女の子自身が続けたいと思っても夫人との相性が悪かったら依頼継続できないらしいからな。
俺の場合は夫人が癇癪を起こしても次の日には元通りだったりするが、相性が悪い娘の場合は機嫌の悪さが次の日に持ち越しだったりするらしいのだ。
その差がどこにあるのかはわからないが……とにかく俺は誠心誠意、夫人の癒やしになれるよう頑張るだけである。
そんなこんなで、穏やかなようで穏やかじゃない一週間が過ぎ、伯爵家に通い始めてから八日目。
「リーズ……アナタ、昔よりも不器用になったわねぇ……」
「え……そ、そうかな?」
俺は部屋の中で夫人に刺繍を教わっていた。
「そうよ。あ、ほら、また間違ってるわ」
「あ……う……ご、ごめんなさい……」
「あら、いいのよ別に。アナタがまだ小さかった頃に戻ったみたいで、私は楽しいわ。教え甲斐があって」
「お母さん……」
失敗続きの俺を優しく見守ってくれる夫人の笑顔に、胸が熱くなる。
……俺にも母親がいたら、もしかしたらこんな感じだったのだろうか。
「あら、どうしたの、リーズ」
「え……?」
「泣いてるじゃない」
夫人の言葉で自分が涙を流していることに気がついた。
「ほら、針を置いて」
「針……?」
言われた通りに針をテーブルの上に置くと、夫人がこちらに近付き俺の頭を自分の胸に抱き寄せた。
「どうしたの? 大学で嫌なことでもあったの?」
「ううん、そうじゃなくって……ただ……」
「ただ?」
「お母さんって……いいなぁって……」
「…………」
「そう、思って……お母さん?」
「……リーズ」
俺の頬にポツポツと温かい液体が落ちてくる。
「リーズ……どうして……どうして冒険者なんて……」
「お母さん……」
「何度も何度も……言ったのに……私を置いて……リーズ……」
「…………」
夫人はわかっているのだ。
本当はもう、自分の娘が死んでいることを。
だけど気がつかない振りをしている。
全力で、現実を見ないようにしている。
直視すれば心が壊れてしまうから。
過去の世界に閉じこもっている。
「うっ……うぅ……リーズ……なんで……リーズ……」
「泣かないで、お母さん……私はここにいるから……」
「冒険者なんて……やめて……お願い……」
「やめるから……お母さん……冒険者はやめるから……」
「行かないで……リーズ……置いて行かないで……ずっと側にいて……リーズ……」
「行かないよ……ずっとここにいる。私はずっとここにいるから……だから……泣かないで…………お母さん……」
◯
夫人と二人でひとしきり泣き終えたあと。
「雨、やまないわねぇ……」
「そうだね……」
俺と夫人は窓の外に見える土砂降りの雨を眺めながら、ひたすらボーッとしていた。
俺の場合、早目に帰って来た伯爵に二人で泣いているところを目撃された、というのもショックが大きかったのかもしれない。
ちなみに夫人がボーッとしてるのは普通によくあることなのであまり気にしていない。
「リーズ」
「なに……」
「今日は泊まっていきなさい」
「わかった……え?」
今、なんて?
「マリアンヌ……」
「あら、どうしたのルドルフ。そんな驚いた顔して。実の娘を家に泊めるのがそんなにおかしいのかしら?」
「で、でもお母さん。私、大学が……」
「今の時季だと確か、大学は夏休みだったはずよね、ルドルフ?」
「あ……あぁ……そう、だったな……」
伯爵は驚きを隠せない様子だった。
それもそのはずだ。
夫人がカレンダーを見て、今の時季を正確に把握している。
その目には今までにない光があった。
理性があった。知性があった。
「ねぇ、いいでしょうリーズ?」
「わ、私は……」
ちらり、と伯爵の方を見る。
伯爵はゆっくりと頷いた。
俺の判断に任せる、ということだろうか。
「……私は、お父さんが、よければ」
「じゃあ大丈夫ね! よかった!」
手を叩いて喜ぶ夫人。
いや、大丈夫だとは思うけど一応そこはお父さんにも聞いておこうよ。
一家の長だよお母さん。
そんな俺の視線を感じ取ったのか、伯爵は苦笑しながら手を振った。
「もちろん、私も良いに決まってるさ。……ありがとう、リーズ」
「お父さん……」
「さぁ、そうとなれば料理長には張り切ってもらいましょう! 久し振りに一家揃っての夕食なんですから! 上等なワインも開けなくちゃ! ねぇ、ルドルフ?」
「……ああ、そうだな」
伯爵は眩しいものを見るように、微笑みながら目を細めた。
こうして、俺は伯爵家に泊まることになった。




