第百四話「勉強」
伯爵家から出て、王都への帰り道。
俺は伯爵家での出来事を思い返しながら街道を歩いていた。
過去の記憶にすがり、まるで夢か幻の中で生きているかのような夫人。
そんな夫人を子供のようにあやし、張り付いたような笑顔で平然と嘘をつく伯爵。
そしてその二人を『父さん』『母さん』と呼び、死んだはずの娘であるリーズを演じる俺。
俺はそれらに対して、『渇望の地下迷宮』で魔物と化してなお、最後まで両親に許しを請うていた冒険者の青年を思い出していた。
伯爵と夫人の娘は……リーズは、死の間際、なにを思ったのだろうか。
あの青年と同じように、最後は両親を想ったのだろうか。
……胸が、苦しかった。
ジル・ニトラが作った異空間でフィルと戦った時に感じた空虚な胸の穴。
その穴に歪な形をした大きな岩を無理やり詰め込んで、表面の皮膚を針で縫い合わせたかのようだった。
明日が憂鬱だ。
本当は行きたくない。
だけど……俺は、この苦しさから逃げたくなかった。
逃げちゃいけないと思った。
向き合わないといけないと思った。
仕事が割に合うとか合わないとか、そんなことはもうどうでもいい。
ここでやめれば、俺はきっと一生後悔する。
そう感じたのだ。
我ながら難儀な性格である。
毎度毎度、苦しみから逃げるようで実は自分から飛び込んでいる。
そして最近やっと報われてきたかと思った矢先にこれだ。
前世に至るまでの俺はよっぽどの業を積んできたらしい。
だがしかし、いつまでもヘコんでなんていられない。
行動しなければ状況は何も変わらないのだ。
今までの依頼と違って先行きは不透明、ゴールがあるかどうかもわからない仕事内容だが……やってやろうじゃないか。
俺は決意を胸に、まずは貴族令嬢っぽい服でも買おうと、服屋へ向かって歩き出した。
◯
次の日。
俺は白のワンピースに麦わら帽子という、非常に爽やかな格好で伯爵家を訪れた……のだが。
「こちらにお着替えください」
伯爵家敷地内に入る門の前で待っていた執事に連れられて、裏口から屋敷の一室に入ったあと。
俺は執事から黒の生地に白い線が入ったチェックのスカートと、白のワイシャツに赤いリボン、そして紺色のブレザーを渡された。
一言で表現すると、学校の制服だ。
「あの……これは……?」
「以前、リーズお嬢様がお使いになっていたという大学制服の予備でございます。旦那様のご命令により、今後はこちらの制服を着て来てほしいとのことです」
「…………」
気合を入れて買った白のワンピースは、どうやらお蔵入りになりそうだった。
「多少、制服の方がお身体に対してサイズが大きいようですが、すぐに発注して正しいサイズの制服を取り寄せますので、寸法を測らせて頂いてもよろしいでしょうか?」
「はい。お願いします」
「お嬢様。そのように丁寧な言葉遣いはせずとも大丈夫です。ワタシは伯爵家に仕える者。旦那様のお望み通り、リーズお嬢様らしい振る舞いをお願いします」
いや、リーズお嬢様らしい振る舞いってなんだよ。
昨日伯爵と細かい打ち合わせをする前にぶっつけ本番に入ったから、そんなこと言ってもよくわからんぞ。
今日は伯爵仕事に行ってるらしいから聞けないし……。
「お嬢様?」
「ええと……寸法ね。じゃあ、お願い」
「かしこまりました」
そんなこんなで寸法を測り制服に着替えたあと、俺は夫人が待っているという中庭に案内された。
「お帰りなさい、リーズ! 待っていたのよ!」
大きなパラソルの下でティータイムをしていたらしい夫人は、俺を見つけると満面の笑顔でイスから立ち上がった。
「さぁ、座ってリーズ。今日はリーズが帰って来るって聞いてたから、朝から楽しみにしていたのよ。トリスト!」
「はい、奥様」
トリストと呼ばれた執事が俺の前に紅茶を用意する。
確かこの執事はジョエルという名前だったと思うが、呼ばれた本人も否定はしない。
……なるほど、昨日伯爵が言っていた通りだ。
夫人は昨日の出来事をもう気にしていない。
というより覚えていない。
伯爵が『明日にはきっと治っているだろう』と言ったのは、つまりこういうことだったのだ。
「いつ振りかしらね、二人でこうしてお茶をするのは」
「えーと……結構久し振り、かな?」
「そうねぇ、アナタ中々こっちに帰って来てくれないんだもの。大学があるから仕方がないのかもしれないけれど……今日も大学に行って来たの?」
「うん、そのまま制服で来ちゃった」
「アナタは昔から動きやすい服が好きだったものね。その点、大学の制服は動きやすそうでいいじゃない。足が見えてるのはどうかと思うけど……」
「そ、そうかな? 膝まで隠れてるし、普通だと思うけど」
「そう……時代の流れを感じるわねぇ……私が若い頃は、ふくらはぎの見えるようなスカートを履けば『平民じゃあるまいし、はしたない』と言われたものだけれど……」
「そうなんだ」
「ええ」
夫人は昨日ひどく取り乱したのが嘘だったかのように落ち着いていた。
「なにせ、私が若い頃は王国に大学なんてものはなかったもの。私も通いたかったわぁ、大学……毎日、高名な先生方の講義を受けられるのでしょう?」
「うん」
「いいわねぇ……今や帝国では大学へ行く前に入れる、高等学校というものまであるらしいじゃない? 毎日勉強して過ごせるなんて、本当に贅沢。昔は『女子供が勉強なんて』と言われたものだけど、今はそんなこともないじゃない? いい時代よねぇ……」
「そうだね」
この世界では『勉強をすることができる』というのは本当に裕福な一部の上流階級の人間のみであり、『勉強をする』こと、『勉強をしていること』自体が一種のステータスであったりする。
それはひと昔前も同じ……いや、昔の方がより一層その傾向が強かったのだろう。
だからこそ、満足に勉強ができない時代に生きた夫人は大学というものに羨望に似た憧れのようなものを抱いているのだ。
ちなみに王国にはまだ学校と呼べるものがディアドル王国立大学しかなく、小学校も高校も存在しない。
夫人の言う通り帝国ではすでに高等学校と呼べるものがあり、なんでも最近では小学校に類するものを作る計画もあるのだとか。
いやはや、本当に国家間で文明レベルの格差が激しい世界である。
「ねぇリーズ。大学ではどんなことを勉強するの? 私に教えてくれないかしら」
「え? ……えーと」
教えてくれと言われましても。
俺はその大学とやらに行ってないので、なにを勉強してるかなんて検討もつかないのだが。
「お嬢様、こちら王国立大学の教科書です」
執事のジョエルがそう言って一冊の本を差し出す。
いや、なんでアンタ王国立大学の教科書を用意してるんだよ。
っていうか出されても困るよ。
え? なにこれ、俺が夫人に教えろってこと?
見たこともない教科書の内容なんぞ教えらんねぇよ。
そもそも、『どんなことを勉強してるのか教えて』っていうのはそういう意味じゃないだろ。
だがしかし、出された以上は受け取らねば不自然だ……くっ、ここはなんとか誤魔化さねば。
「ありがとう、トリスト。でもお母さんが聞いてるのはそういうことじゃないと思うから……」
「あら、リーズ。私が聞いてるのはそういうことよ。リーズが勉強してるところ、教えて頂戴?」
「…………」
即行で詰んだ。
……しょうがない、ここまできたら腹をくくるしかない。
俺は分厚い教科書をジョエルから受け取り、その表紙を見た。
科目名は……『神学』?
中身をパラパラとめくると、そこにはこの世界におけるメジャーな神々の歴史や性質、それらに対する考察などが事細かに記されていた。
「ねぇリーズ。黙って読まれてもつまらないわ。声に出して聞かせて?」
「え? ……う、うん。わかった」
なるほど、教科書の内容を読むってだけなら別に中身を理解してなくてもできるな。
もしかしたら以前にもこういうことがあって、それでジョエルは教科書を用意していたのかもしれない。
俺は夫人にせがまれるがまま、適当なページを開いてその内容を朗読し始めた。