第百ニ話「シルヴェストル伯爵家」
「ここがシルヴェストル伯爵家か……」
指名依頼を受けて数日後の昼過ぎ。
俺はディアドル王国から南に下って海の近くにある、シルヴェストル伯爵家の屋敷を訪れていた。
若い女冒険者に夫人の話し相手をしてほしいという、例の特殊な指名依頼を出している伯爵家である。
「さて、どういう事情があるのやら」
結局、俺は冒険者ギルドでこのシルヴェストル伯爵家の事情とやらを聞くことはできなかった。
なにやら新しくこの依頼を受ける冒険者には毎回直接、依頼人であるシルヴェストル伯爵自身がその事情と仕事の詳細情報を話すとのことである。
「徹底してるよなぁ……ん?」
シルヴェストル家の正門を抜け、庭を通って来客者が訪問したことを知らせるベルを鳴らすと、屋敷の中からなにか口論するような男女の声が聞こえてきた。
……っていうかどんどんその声が近づいて来た。
「待つんだ、マリアンヌ!」
「うるさい! アナタの言うことなんか……」
ドアが開き中から出てきた中年の男女がこちらを見て固まる。
貴族的な服装と状況からして、この男女が例の夫人と伯爵だろう。
となればさっそく挨拶しなければ。
初対面での印象は大事だからな。
「お初にお目に掛かります。冒険者ギルドから指名を受けて参りました、ミコト・イグナート・フィエスタと申します。本日はどうぞよろしくお願い……」
「バカ!!」
スパーン! と頬を叩かれる。
え? 今俺、挨拶の途中で夫人に頬を叩かれた?
……なんで?
「今まで……どこに行ってたの……!」
「……え?」
「どこに行ってたのって聞いてるの!!」
透き通るような長い金髪を後頭部で纏めた夫人が、鬼のような形相で俺に詰め寄ってきた。
「あっ……えっと……冒険者ギルドに行ってました」
「っ、またそんなところへ行って!」
夫人は再び右手を振り上げて俺を叩こうとする……が、途中でそれを止めた。
その代わりに夫人は震える手で俺の頭を抱え、自らの胸に抱きしめた。
「あ……あの……?」
「もう……もう、どこにも行かないで……リーズ……」
「…………」
これはなにか言えるような雰囲気じゃない。
だが圧倒的な質量を前に息が苦しいのは切実だ。
俺は僅かに頭を動かして夫人の胸から顔を出した。
これでやっと呼吸ができる。
そう思って安堵した俺の頬に、ポツポツと温かい液体が上から落ちてきた。
「リーズ……私の可愛いリーズ……冒険者なんて危険なことはやめて……お願いよ、リーズ……」
「…………」
俺はなにか言うことも、動くこともできず、しばらくそのまま夫人に抱きしめられていた。
◯
数十分後。
落ち着いた夫人と引き離された俺は、屋敷の一室でシルヴェストル伯爵と丸テーブルを挟んで向き合っていた。
「初めまして、フィエスタさん。私が今回の依頼を出したルドルフ・マルティン・シルヴェストル伯爵だ」
アンティーク調のイスに座ってから自己紹介を始めたシルヴェストル伯爵は、限りなく黒に近いダークブラウンの髪をオールバックにしているのが特徴的な強面の中年男性だった。
そのオールバックにはところどころ白髪が混じっており、顔のシワと相まって積み重ねてきた年齢を感じさせる風貌となっている。
歳は五十代前半ぐらいだろうか。
この世界的にはもう中年というより初老と言うべきかもしれない。
「先程は妻が失礼をして……申し訳ない」
「いえ、そんな……頭を上げてください、伯爵。私は大丈夫ですので」
「そう言って貰えると助かる。妻は見ての通り、その……一種の病気でな」
伯爵は慎重に言葉を選ぶように、ゆっくりと話し始めた。
昔、この家には一人の娘がいたこと。
その娘は十三歳になってディアドル王国の王立大学へ入学したが、バイト感覚で始めた冒険者にのめり込むようになり、大学を中退してしまったこと。
そして十五歳になった頃、冒険者として西の森へ魔物を狩りに行って……後日、死体となって発見されたこと。
「当時の妻は、それはもう酷く取り乱してな……」
娘を失った夫人はその後、狂ったように暴れ回り、泣き叫び続けたという。
このままでは自分自身を傷つけかねないと、伯爵はやむなく妻を凶器になるものがない部屋へと軟禁したらしい。
「それから数日後、妻は平静を取り戻したかのように見えた。酷く取り乱したことを謝った妻は、部屋から出してほしいと懇願した。妻が正気に戻ったと思った私はもちろん彼女を部屋から出したのだが……その晩、妻は家から姿を消した」
夜が明け、次の日の朝。
捜索の末に、夫人は娘の墓の前で倒れているところを見つけられた。
「だが目が覚めた時……妻は、変わり果ててしまっていた」
倒れた状態で発見された夫人の手元には、十数種にも及ぶ怪しげな薬が散らばっていた。
状況からして、様々な種類の薬を一度に飲み込み自殺を図ったものと推測された。
すぐに医者が駆けつけ適切な処置を行ったおかげで一命を取り留めることができたものの、目を覚ました夫人は今のような、現実と妄想の区別がつかない状態になってしまっていたという。
「私が側にいる時は比較的落ち着いているのだが、いない時は本当に酷くてな……だが、かつての娘と同じ年頃の少女がいれば、大分落ち着いてくれるのだ」
つまり伯爵がいない時の代役が俺、というわけだ。
伯爵には今年で二十二歳になるという息子がいるらしく、今はその息子に領主としての仕事を殆ど引き継いで半ば引退しているようなものなのだが、それでもまだ監督役としてやらなくてはならない仕事があるらしい。
だから依頼指定が十三時から十八時、という微妙な時間なのだという。
「どうだろう……引き受けて貰えるだろうか?」
「ええ、もちろんです。私でよろしければ」
その為にここまで来たんだしな。
ちょっとビックリはしたが、今まで受けてきた苦難と比べたらどうということはない。
むしろこんな楽な仕事で大金を得ていいのかと、ちょっとした罪悪感を覚えるぐらいだ。
「それはありがたい。では、仕事の詳細なのだが……」
「詳細、ですか?」
なんだろう。
夫人の話し相手をする際の注意点、ということだろうか。
「難しいことではないのだが……フィエスタさん。貴女にはこれから、この家では私と妻の娘として振舞ってほしい」
「娘として……」
「そうだ。具体的に言えば、妻のことを『お母さん』、私のことを『お父さん』と呼んでほしい」
「……はい?」
「来客中や、外では『お母様』『お父様』と呼んでくれ。娘は庶民のような呼び方を好んでいたが、それでもやはり貴族の子女だからな。対外的には『お母様』『お父様』で通していた」
「な、なるほど……」
唐突に出てきた呼び方指定に多少面食らったが、あの夫人の様子からして当然といえば当然の要求か。
夫人は完全に俺のことを娘と認識して振舞ってたからな。
「あと、妻と私に対して敬語は不要だ。それから……」
「伯爵、ちょっと待ってください」
遠くの廊下から執事の男と夫人の声が近づいてくるのが聞こえる。
「ご夫人が来ます」
「なに? ……なぜわかる?」
「私は耳がいいのです」
そんなことを言ってる間にどんどん夫人の声が近くなってきた。
「奥様! 奥様お待ちください! 今は旦那様が……!」
執事の手を振り切り部屋の中に入ってきた夫人は、こちらを見て海のように青いその碧眼をギラリと光らせた。