希望
まだ幼い太陽が、それでも辺りの木々や家々や電信柱などの輪郭を少しずつ鮮明に浮かび上がらせようとしている。
梅はこのひと時が一番好きだ。コンビニで深夜帯を選択したのは何も時給が高かったからばかりではない。いつもの帰り道がまるで知らないおとぎの国の小道のように思えてしまう喜びが、逆に避けたいとばかり思う現実の今日へとやわらかく繋いでくれる。この感覚を味わいたくて、そんな時間に仕事が終わるようにした。こちらのほうが気持ちは強い。そして、より切実だ。
ながく息を吐いてみる。白い息がそのまま空に昇りそうに思えるのに、それはほんの少し空に近づいただけでうっすらと青みを帯びた色に溶けてしまう。けれどもその後、空気を欲しがる肺が吸い込むそれにはミルクの香りがある。それもなんだかうれしい。
ダウンジャケットを着込み、手袋を嵌めた手をさらにそのポケットに入れている。
牛乳配達の少年が手を振ってきた。
「よう、少年。きょうも元気そうだな」
梅は笑ってから、声を張って言った。
「おねぇさんって顔はかわいいのに、言葉使いはいつもながらおやじだね」
「悪いか、少年。労働の後はだれでもおやじになるのだよ」
「僕はならないけど」
「それは君のが労働ではないからだ」
「だったら僕のは何?」
「トレーニングだろ。そう言ったじゃないか。はじめてここで出会ったとき」
「そんな昔のことよく覚えてるね」
「君にとっては昔でも、私にとっては昨日のことさ」
「つまりおねぇさんが年寄りってこと?」
年寄りと言っても梅はまだ二十歳にもなっていない。けれど十代も後少しといえば、やはり年寄りなのかもしれない。
「その通りだけどな。それは言わないほうがいいのだぞ。とくに女性には言わないほうがいい。これから必要になるから、そのことは覚えていなさい」
梅は鷹揚に応えた。
「わかったよ。いつものでいいね?」
「うん」
梅は急にかわいい声を出し、硬貨を少年に渡した。
腰に左手を当て、右手に持った牛乳を仰向くようにしてごくごくと飲む。言わずと知れたおやじ飲みだ。けれどもこうして流し込む牛乳がまたうまい。この姿とのギャップを強調するためにわざと寸前の台詞はかわいく言うことに決めてある。
「あのさぁ」
「みなまで言うな、少年。分っている。私に惚れてもだめだからな」
「だめなんだ」
「だめ。だめ。当たり前だろ。どうだ、今日の私に題をつけてくれ」
梅は胸を張ってポーズを取った。
「うーん。(冬)の妖精。かな?」
「だれがマイ ネーム イズ ピーターパンやねん」
「だから違うって」
「ん? 君はピーナツバター派なのか?」
「何言ってるの?」
「英語も分らないのか? 中学生のくせに。ピーターはパンを食べるときマヨネーズです、やろが」
「ううう、寒。ギャグとも呼べね」
「風邪をひかないうちに帰れ、少年」
「それじゃ、あした」
少年はそれだけ言うと走り去っていった。
その後ろ姿をじっと見送る。明日までか、あの少年から牛乳を買うのは。ここで牛乳を買うたびに数えていた。少年はサッカーシューズを買うためと朝のトレーニングをかねてこの辺りの牛乳配達をさせてもらっているのだと説明した。梅の計算に間違いがなければ少年の目標は明日達成できる。
さらに言うなら、夕焼けの中の少年を見てから、梅が抱いていた気持ちも、明日完結を迎えるのかもしれない。
あれはまだ夏の終わりのことだった。けして裕福ではなかったけれど、家族仲がよくて、自慢の父と母であった。それを一瞬にして失った。人はいずれ死ぬ。そのことに格段の感慨もない。けれども元気そのものだった者が一瞬の交通事故で命を落としてしまうなんてことは、それで両親を亡くした梅にとっては、受け入れ難い現実であった。うつろな心をどうすることもできず、自分もいっそ死んでしまいたいと、夕暮れに彷徨うようになった。そして少年を見た。河川敷のグラウンドでサッカーの練習をしていた。
サッカーのルールもよく知らない梅であったが、それでも少年が飛びぬけて下手だということはわかった。ボールを扱えば、そのボールのほうがはるか先に行ってしまう。組まされた相手の動きに合わせようとすると、すぐに追いきれず無様に尻餅をついてしまう。そんな風に一番下手なくせに、けれども一番よく走っていた。そんなに走り続けたら心臓が止まってしまわないか? 両親を亡くしたばかりの梅は本気でそれを心配した。
なぜなのかは分らぬまま、それから毎日、少年を見に通った。もっとも少年には気づかれないように土手の陰から覗くようにして。
やがて紅葉の頃になった。季節が移ろうことは当たり前だ。しかし梅にはその当たり前のことも不思議であり、切ないのだった。変わらないものがあるというのに、人の生はあまりに儚い。そして、その思いは深い。河川敷のグラウンドも草が秋枯れ、茶色に染まったようであった。
と、気がついた。あの少年が素人目にも少しうまくなっている。ボールを扱えば、あいかわらずボールのほうが先にいってしまうけれど、なんとか追いつける範囲でおさまっている。まだまだ下手な選手の中のひとりだったけれど、飛びぬけて下手だというのからはすでに脱却していた。
なぜかは分らないけれど、梅はその少年に賭けてみることにした。あれほどまでに下手な少年がごく普通のサッカー少年になれたなら、それは奇跡ではないのか? もしもそんなことがあるなら、己の心にたまった哀しみもむなしさも天に捧げねばならないだろう、と。
そう、それは賭けであり、ある種の祈りでもあった。
梅はそう決心すると生き延びるために仕事を探した。死ぬことばかり考えていた人間にとっては天地がひっくり返ったくらいの大事である。そのようにして深夜のコンビニのバイトを手に入れた。この仕事の一番いいところは仕事を終えると、朝が来ることだ。そして明るいうちに眠ることができる。それでなくとも暗闇に沈みそうな梅にとって、薬でも手に入らない眠りが訪れることは幸運に他ならない。
年が変わって早々、元旦の朝に、梅は牛乳配達をしている少年をみつけた。考える間もなく声をかけていた。少年は現金売りはできないとすまなさそうに言った。梅が、わかった、と言うと、明日もここに来るなら社長に言って現金売りを持たせてもらうけど、それでどう? と提案してきた。何がどう? なのかよくわからなかったけれど、梅はそうして欲しいと頼んだ。
昔のことと言えば昔のことだ。
アパートに帰り着いて、いつもの窓辺に布団を敷いて横になってみたけれど、きょうは眠りは訪れそうになかった。フリーマーケットで買った、たぶん小型の仏壇と思っているモノの扉を開けた。位牌が寄り添うように収められている。それをじっと見つめた。涙はこぼれなかった。
夕暮れ近くなると、河川敷のグラウンドに出かけた。
きょうも少年は誰よりも走っていた。トレーニングをかねた牛乳配達のお陰か、少年のダッシュ力は数段進歩していた。かつてはマークにつけなくて置いてきぼりを食らっていたが、今では守りながら充分並走できるまでになっていた。けれどもけしてお世辞にもうまいとは言えない。
半年見続けたために梅にもいくばくかの良し悪しはわかるようになっていた。少年は誰よりも走っていたけれど、肝心なところの間合いにセンスが感じられないのだった。だからあっさり抜かれてしまう。それは致命傷だった。この分では春が来ても賭けに勝つことはないだろう。けれども梅はもう充分な気がしていた。少年がすごいサッカー選手になることよりも、今目の前で走っているように、己のできることを精一杯やり続けている姿こそが美しいし、祈りの証のように思えるのだった。
梅は半年振りに繁華街に出て買い物をした。
仕事を終え、いつもの道を歩いていると、朝靄の中に少年が待っていた。
「よう、少年。きょうも元気そうだな」
梅は、いつものように笑ってから、声を張って言った。
「おねぇさんって、やっぱりおやじだ」
「悪いか、少年。労働の後はみんなおやじになるのだよ」
「てか、それって何かの呪文? 毎朝聞かされてると変な気分になるよ」
「ほう。私に惚れたか? それはいけねぇな、少年」
「そんなんじゃないけど、これ」
少年は告白のためのプレゼントでもあるかのように、かなりの大きさの包みを両手で差し出し、梅に向かって頭を下げていた。
「なんだ、それは? 牛乳にしちゃでかいぞ」
「受け取ってください。お礼なんです」
「君にお礼される謂れはないと思うんだが」
梅はそういいながら自分のバッグに入っている包みの事を考えていた。
「それがあるんです。僕はこんな苦しい牛乳配達なんてあの日でやめてやろうと思っていました。でも、あの日、おねぇさんが僕に声をかけてくれました。それからというもの、毎朝ここでおねぇさんが僕から牛乳を買ってくれるから、だから、きょうまでがんばってこれたんです。だから、これ、おねぇさんに受け取って欲しいんです」
一生懸命さが伝わる物言いであった。
だから梅はゆっくりとうなずくと包みを受け取った。
「開けてもいいかな」
「はい」
中から出てきたのは真っ白なスニーカーだった。
「おねぇさんってかわいいのに、なぜかスニーカーは使い古した雑巾みたいで、穴も開いているし、大きなお世話なのはわかってますけど、どうしてもそれを贈りたくて」
「いや。すごくうれしい。うん。すごくうれしいな」
このスニーカーを買うお金がどこから捻出されたかは容易に想像できた。このために少年のサッカーシューズはとうぶんおあずけだろう。そこまでしてこれを贈ってくれた。そう思うと様々な感情がせり上がってくる。
「お返しってわけじゃないけど、私も渡したいものがあるんだ」
梅はバッグから包みを取り出して差し出した。
「私もね、あなたへのお礼なの。受け取って」
「僕こそお礼なんてもらう理由が」
「ううん。たぶん私のほうがより多くのものをもらったわ。だからお願い。受け取って」
梅の顔をじっと見つめていた少年は、ゆっくりとうなずいてから、包みを受け取った。
「開けてもいいですか?」
梅は黙ってうなずき返した。
「ああー。日本代表のユニフォームだ」
少年は目を輝かし、さっそく自分の体に合わせて、横を向いたり、後ろを向いたりしはじめた。
「そいつを目指しな、少年」
「絶対無理っす」
間髪いれずに少年は答えた。
ユニフォームを着終えた少年は、こぼれるような笑顔を見せて、まるでそこにボールがあるかのように大きく蹴る真似をした。
梅には希望とでも呼ぶべき明日に向かって真っ直ぐに飛んでいくサッカーボールが確かに見えるような気がした。




