11
エテルナードの国民にとってレブスト教会というのは王城の次ぎに神聖な場所だった。むしろ自由に出入りが出来る分、レブスト教会の方が身近で神聖な場所だろう。
一般の参拝者はレブスト教会の礼拝堂までしか入らない。その奥にある「冥王の寝所」と呼ばれる場所は教会関係者の中でも高位にある者くらいしか入ることはない。一般公開こそされていないが、出入りを厳しく制限している訳ではない。ただ多くが憚って入らないだけなのだ。
中央に備えられた円形の台座の手前で祈りを捧げるように跪いていた大司教ネバ・ミーディルフィールは人の気配を感じて顔を上げる。
「おや、貴方は……」
「……失礼してもいいでしょうか、猊下」
ネバは立ち上がり微笑んだ。
「ええ、構いませんよ」
柔らかい笑みを浮かべた彼の前に彼女は歩み寄った。ほんの少し間合いを取るような位置でライラは立ち止まる。後方にはジンとキカが様子を窺っていた。
ライラは先刻見つけた本を抱きかかえるようにしながらネバをじっと見据えた。
「何故普通に動いているのかと問わないのですか?」
「何のことでしょう」
ネバの顔色はちらりとも変わらない。普段と変わらない柔らかい笑みを浮かべている。
逆にそれが不気味なようにさえ見えた。
ライラに対して丁寧な物言いをするのは彼女の立場を理解しているからではない。ただサイディス国王が特別と称した娘だから。そうでなければ阿る必要など無いとでも言いたげに瞳の奥は笑ってはいなかった。
少しライラの表情が深くなる。
「サイディスさまは甘いものを好まないわ。だから、貴方の狙いは私で、この大切な時期に女に現を抜かすなという警告。貴方に私を殺す意志はなかったことは分かっているつもりです」
ライラ達の元に運ばれた食事のジャムには毒物が入っていた。
ほんの少しだったが、ライラの嗅覚は甘酸っぱい香りの中に混じった匂いを見逃さなかった。それは致死量と呼ぶにはほど遠いほどの薄いもの。だが一定量以上摂取すれば半日くらいは体調不良があっただろう。そして長期に渡って摂取すれば死に至ることもあるもの。
予備知識もあるし、ライラは定期的に血を浄化するための解毒剤を服用している。だから毒薬物を摂取したところで中和されライラの身体には全く影響は無かっただろうが、毒と分かっていて摂取する気にはなれなかったのだ。
「回りくどいことは嫌いだから単刀直入に言うわ。……ネバ猊下、オルジオ先王陛下を毒物による衰弱死に追い込んだのは貴方ですね?」
ネバは怒りもせず、ただ心外そうに肩を竦めた。
「私が? 何のために?」
それが全く分からなかったのだ。ミーディルフィール家はレブスト教会の最高責任の地位に有り続け、王家を支えてきた。国政にこそ口を挟むことは少なかったが、過去には王が意見を求めることもあれば、ミーディルフィール家の出であれば国の要職にも付ける。王家すら軽んじることのない家柄なのだ。
その中でも最高位に付くネバはこれ以上の地位を望むとしたら玉座しかない。
ライラには彼が国を恣に動かすのを望んでいるようには思えなかった。ティナとエテルナードの違いこそあれ、城内で育ったライラは地位を望む人間を様々見てきた。その誰もが野心を湛えた瞳をしていた。しかし、ネバにはそれが見あたらなかった。
ましてオルジオとネバとデュマは地位や立場の違いこそあれ、友人関係に会ったと聞く。その関係は後にその中にコルダが加わっても変わらなかったと聞く。
だから分からなかったのだ。「ユクは水に棲む魔物」という書簡を見たとき、地下水道で枯れたアンニ草を見たとき、ライラはオルジオ殺害が教会関係者の手によるものだと感じ取りながらも彼の瞳を見て確証が持てなくなった。
でも、理由を見つけたのだ。
「兄の仇」
言うと微かにネバの表情が動いた。
ベッドの下から見つかった本は、日記帳だった。オルジオが恐らく病床で書いた者なのだろう。痛みや苦しみに踊ったような字は日常や過去の事を綴っていた。本当は日記などではなく二人の息子に向けた遺言だったかも知れない。
読みながらライラは過去の出来事と、毎日のように差し入れをするネバの姿を知った。
そして、オルジオの想いも。
「猊下には兄がいたんですね。オルジオ王の父、ハイラム王の時代です。本来ならその人が教会の大司教になるはずだった。でも、中毒で亡くなっている」
「……私が殺したとでも言いたいのですか? オルグを死に追いやった方法と同じ方法で?」
嘲笑うような口調。
ライラは息を少し深く吸う。
「同じ方法で、は肯定します。でも、お兄さんを殺したのは貴方ではない。ハイラム王の方」
「………」
「少なくとも貴方と、オルジオ陛下はそう思っている。……この日記に、書いてあるわ。ハイラムはディオ司教を見捨てたと」
ネバの兄ディオはアンニ草による中毒症状を起こしていた。その理由は分からないけれど、ハイラムは治癒の方法を知りながらもディオを見捨てたのだと日記に書いてあった。
「最初は復讐の為に近づいたんじゃないですか? ディオ司教を見捨てた男の息子がまた同じように自分たちを見捨てるかも知れないと言う恐怖があった。だから貴方は試すつもりで王に近づいた」
「その日記にそう書いてありますか?」
ライラは首を振る。
「いいえ、貴方のことを一言も悪く書いてありません。むしろいい友だと」
「そうでしょう、オルグはそう言う男でした。私は兄の敵を討つことを考えなかった訳ではなりません。確かにハイラム王の息子であるあの方が同様に苛烈な方だったらと考えると私が諫めなければならないと思いました。でも、あの方のお人柄はハイラム様とまるで違う。……私に殺す理由などありませんよ」
諭すような口調。
ライラは首を振る。
「いいえ、理由はあります」
「さて、何でしょう」
「コルダ・ジュール卿の存在です」
「ジュール卿が何の関係がありますか」
「日記には貴方が珍しく国王に意見してまで、コルダ卿を登用するのに反対をしたと書かれています」
ネバは笑む。
「それは当然でしょう。どこの誰かも分からない人を陛下のお側に置いて万が一の事があってはいけません。危険であるからおやめ下さいと言ったんです」
「本当にそれだけですか?」
「何を」
「貴方は知っていたのではないのですか?」
ライラは言葉を切る。
ネバの瞳がライラを見据える。
表情こそ変わっていない。だがそこには酷く暗い色が見えていた。
「貴方の兄を殺したのは、コルダ卿のいた一族と、エテルナードの王族である可能性が高いことを」