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「……!」
ヒューム公爵が動いた。
反射的にキカは剣を床に向かっておろした。
きん、と音を立って床に転がっていた薬品が跳ね上がる。鈍い音がして公爵がうめき声を上げた。
手を引いた公爵の手は真っ赤に染まる。
「貴様……っ、拾ってやった恩を忘れて……!」
「拾う? それは少なくとも恩を売るだけのものを与えた人が言う言葉です。確かに街のごろつきがあれだけの金品を与えられれば恩を感じるかも知れませんが、残念ですが私はお金に困っていないんですよ」
キカは別に贅沢な暮らしをしたいと思っている訳ではない。
旅をしていれば滞在費だけでも馬鹿にならないが、その位を稼げる腕はキカにはあるし、何よりよほど寒い地方でも無い限り道ばたでも寝起きできる。お金はあれば便利だが、それほど無くてもやっていけると言うのが現状だ。
それを恩と言うのは勘違いも程がある。
「お前は国に恨みがあるのでは無かったのか!」
「ああ、私がハイラム王の孫である可能性があると言うことですか? だから何だと言うんです?」
「何?」
「原因を恨むと言うのなら、ハイラムか、その后だった女です。この世にいない相手は憎みようもありませんね。今の国王を恨むというのは筋違いもいいところです。それに、私にはその実感がない。私は両親の名前すら知らないんです」
今更自分の方が直系の血筋で正しいと言ったところで誰も信じないし、国王になるつもりもない。王を殺して玉座に座ったところで国民は付いてこないし、公爵も認めはしないだろう。
恨んで戦ったとしても自分の利には成り得ない。まして、親のことなんかまるで知らない。それが国王になるべきだったといわれても何の感慨もない。王国軍に襲われて自分の親たちが命を落とした可能性があったとしてもだ。
「そもそも、私としては何故貴方が私がそのグレイス姫の子供である可能性を考えたかの方が疑問ですね」
ヒューム公爵の顔色が変わった。
キカにはそれだけで十分だった。恐らく成長したグレイス達を襲い、赤子であったキカを魔術実験をしている男に売り飛ばしたのはこの男の差し金。その場所から救出すればキカが恩を感じるとでも思ったのだろうか。
冷たい目でキカは彼を見る。
恨みなど、もう突き抜けてしまっている。魔術実験をした変態がしたことの報いは命で贖わせた。この男が元凶であれば恨むべきだが、恨んだり憎んだりする程の価値のある男にも思えない。
憎しみや恨みではなく、この男の罪状を暴き、自ら贖わせる事が今の正当。
キカは笑う。
「さぁ、どうやって死にたいですか?」
問うと傷ついた手を押さえながらヒューム公爵が後ずさる。
「わ、私を殺してみろ! この国は水に沈むことになる」
「冗談を。どうやってやるつもりですか」
「私の部下の者が堰を切る準備をしている」
キカは舌打ちをする。
「失敗したら国と心中するつもりですか。全く貴方という男は反吐が出るほど短絡的な小悪党だ」
「まぁ、その小悪党の思い通りになるっつーことは、あり得ねぇことですがね」
声と共に入ってきた男を見てヒューム公爵が目を剥いた。
そこにいたのは西の塔に閉じこめられているはずの男だった。キカは男に対して冷たい視線を向けるが、それ以上は何も言わなかった。
「……ジュール卿……何故っ」
コルダは部屋をなめるように見渡して失笑する。
「はん、趣味の悪ぃ部屋じゃねぇですか。土産がこれではシャレが効き過ぎか」
彼は何か丸い包みを公爵に向かって投げる。
公爵にぶつかったそれは転がり、姿を現す。
それを見てノウラが息を飲んだ。公爵もまた口元を抑える。
それは人の首だった。ただし胴体は既に無く、苦悶に表情をゆがませた状態で天井を見上げている。包んでいた布きれにはおびただしい血が付いていた。
「ホナー卿です。エリオットもまた今頃同じ状態になっているんじゃねぇですかね」
「ばかな、卿は西の塔に捕らえられていたのでは!? あの塔から出せるのは、王か宰相だけのはず……ユリウス殿下は籠もったまま動かなかったはずだ! 何故っ」
王を近くで補佐する役目のある王佐宰相は、サイディスが即位してから変わらずユリウスが務めている。一時はユリウスが幼いと言うこともあってディロードが代理を務めていたが、現在はユリウスがその役目を負っているはずだ。
そのユリウスが部屋に籠もって出てこなかったのだから、ジュール卿を塔から出せるはずがないと言っているのだ。
くすり、とどこからか笑いが漏れた。
「残念だが、今の王佐宰相はジュール卿だ」
国王はしっかりとした足取りで部屋の中に入る。コルダが道を譲り礼の形を取った。その後ろから入ったライラはノウラを支えるように肩に手をかける。顔面蒼白だったが、ノウラはしっかりした様子でライラに頷いて見せた。
「ユリウスから権限を一時譲られているはずだな、ジュール卿」
「頂いています。つまり、俺は今国で二番目に権限があると言うことになるようですね」
「俺は権限を剥奪した覚えはない。よって、コルダは自らの権限で自由に出入りすることが出来る」
「何故そんな……あなた方は仲が悪かったのではないのか!」
もっともな叫びにコルダは笑う。
「確かに俺はこの王のことは良く思ってねぇです。国王なら国王らしく大人しく玉座を暖めてりゃいいんです。良くも悪くもオルグの野郎に似ていて反吐が出そうだ。だが、だからといってユリウス殿下のような甘ちゃんに国を任せられはしませんね」
「俺の弟に文句でもあるのか?」
じろりと国王に睨まれた王佐宰相は堂々とした様子で頷く。
「俺とデュマが育てた割に甘くなったのは陛下の責任じゃねぇですか」
「俺の責任だと?」
「陛下が必要以上に甘やかすからあんなあまったれになるんです。ヒューム卿に言っておくが、この男は熊みてぇなナリしながら中身はとんだ狸です。暗愚な振りをしながら俺が混ぜたとんでもない書類を全部弾いて来ましたからね。印を押すだけの短時間で良く出来たもんだ」
感心というよりは呆れに近い。
それだけの能力があるのなら、仕事をもう少しきちんとしろ、そんな非難の声のようにさえ聞こえた。
「何だやはりアレは故意だったか」
国王は呆れたように言い、コルダは肩を竦める。
「分かりにくくしたつもりですがね。悉く弾いてさすがに呆れました」
「通ったらどうするつもりだったんだ」
「そのために俺が最終確認とってたじゃねぇですか。……気にいらねぇが、サイディス国王の王としての資質は高い。別にこれが王でも反対するつもりねぇです。それにしたって気にいらねぇのはアンタだ」
ジュール卿の瞳が鋭さを増した。
「俺を貶めたのは許すにしても、てめぇがごちゃごちゃかき回したおかげで、大物を釣り損ねた。これで本当に取り逃がしたら、お前の首、飛ぶぐらいじゃすまさねぇからな」
「お、大物だと?」
公爵は自分が小物だと侮辱されたように思ったのだろう。
瞳に明らかな怒りを浮かべる。
それは逆に押されるように返された。
「国王暗殺及び玉座簒奪の疑いで捕縛する。罪状を明らかにした後、相応の捌きが王より下る。……覚悟しろよ」
「くっ……」
公爵が動いた。
恐らくそれが最後の手段だったのだろう。床に転がった薬に手を伸ばした。刹那、キカの剣が公爵の腕を切り落とし、コルダの剣が胸元を薙いだ。なおも残った手で薬をつかみ取った公爵がそれをそのまま口に運ぶ。
がり、と何かをかみ砕く音が聞こえた。