5
穴から這い出した男は周囲に人影が無いことを確認して穴の方へ再び手を入れた。
「つかまれ」
少女の細い手が自分の腕を掴んだことを確認すると、彼は彼女を引き上げた。
男は腕力があるほうだが、穴から一人の人間を引き上げるにはもう少し難儀すると思っていた。だが実際引き上げた少女の身体は軽く、あっさりと地上に姿を現した。
まるでふわりと舞う羽のようだと思った。
「何だ、随分と軽いな」
「そう? 普通だと思うけれど」
「ちゃんと食べているのか? ノウラよりも軽いぞ」
ライラは苦笑する。
「それ、ノウラ姫には言っては駄目よ」
「当然だ。女性に使う言葉の禁止事項くらい心得ている。だが、軽すぎはしないか? 細い腰が流行とはいえ、男としてはもっと肉の付いていた方が抱き心地が良……す、すまん」
彼女に睨まれてイディーは自分の失言に気づき、素直に詫びる。十七歳の少女に聞かせるにはあまり良いとは言えないような内容だ。
彼女はため息をついた。
「別にいいわ。あなたのそれは染みついたもののようだから」
「……何故か俺が男としてどうしようもない人間と言われているような気になるが」
「そう? 被害妄想じゃないかしら。……それよりここはどの辺なの?」
「ああ、ここは……レブスト教会の裏庭になる。普段は殆ど人が出入りしない場所だ」
「なるほど、近い方がかえって死角になるものね」
覆い茂る木々の影から城の窓が見えた。バタバタと人が行き交っている姿が見える。追っ手が掛からなかった事を見ると、サイディスは死んだという扱いになっているのだろう。国王の突然の死。その国王が偽物であった。そんなことがあって城内が落ち着いている訳がない。
サイディスが死んだというのが半信半疑だったとしても、まさかこんな近くに潜んでいるとは思わないだろう。下手に城下に出るよりは修行僧に混じっていた方がやりやすいだろうと思ったのだ。
「まぁ、そうね、服をまず何とかしましょう。貴方の服も血だらけだし、僧服ならあまり目立たないわ」
「同感だな。どこかで服を拝借しよう。教会には一括して衣服を管理している場所があるはずだ」
「そうね、あるいは最初に出会った人に借りるか」
話をして借り受けるという意味にも取れるが、残念ながらそう言う意味には聞こえなかった。イディーは呆れたように言う。
「……それは強奪というのではないか?」
「あら、緊急時よ? 仕方のないことだわ。まぁ、人の着た服なんてなるべく避けたいのだけど」
あっさりと言い切った彼女に少し目眩を覚えた。
物騒な事でも緊急時と割り切って笑顔で言ってのけてしまう。こう言うところは兄によく似ているのではないだろうか。
「問題はこれからどうするか、ね。暫く動向を窺った方がいいとは思うけれど、のんびりもしていられないわ。ユリウス派の人間としてはきっとすぐにでも戴冠式を行いたいと思っているはず」
「そうだな。おそらく大祭にあわせてくるはずだ。俺が病気で床に伏せったからユリウスに王位を譲る位のことでっち上げるだろうな」
そのために遠目から見て「サイディス国王」に見える人間くらいは用意するだろう。多少体型が違っていたり、動きがぎこちなくとも「ご病気」ということで国民は納得する。二代で病気ということになってしまうが、遺伝的な病気であるとすれば、原因不明の死去や偽王であったと言うより混乱も少ない。
「大祭で発表されたらお仕舞いよ。その前に冠を奪還することをお勧めするわ」
確かに大祭で交代劇を見せられたら「サイディス国王」が王位に戻るのは難しくなる。どういう事情で戻るにしても、国民に不安の種を蒔くことになる。
分かっているだけに苦笑を禁じ得ない。
「国王に戻る気があればの話だがな。俺としては城内の不穏分子を一掃できれば王はユリウスでも構わないと思っている。幸い、あれならば優しい王になるだろう」
「優しいだけじゃ王は勤まらないわ」
「分かっている。だが不穏分子を取り除き残った者達が新王を支える」
腰に手を当て少女が盛大なため息をついた。
「呆れた。あなたそのためにずっと昏君の振りをしていたの?」
「そのためとは?」
「ユリウス殿下に一番安全な玉座を譲り渡す為よ」
彼は薄く笑う。
父の仇を燻り出そうとしていたのは事実だ。そうしているうちに少し不穏な動きが目に付くようになった。そう言った不穏分子にしてみれば有能な王よりも無能な王の方が扱いやすくいずれ取り入ってくるだろうと思っていた。
実際、そう言う輩も多かった。
そのうち気づいた。何か自分ではどうしようもない程のものが潜んでいる可能性があることに。それはエテルナードの根底にある元凶。気づかないうちに徐々に周りを浸蝕して腐らせていく何か。
それを取り除かなければいずれ国は傾き、滅びる。それに気づいたからこそ、無能な王の演技をし続けた。
「俺は死んでも構わないと思っている」
言うと少女の目つきが少し変わった。
緑の双玉が射抜くように自分を見ている。彼は構わずに続けた。
「死にたいと思っているわけではない。ただ……俺一人の命で国が救えるのなら安いと思っている」
「……それで貴方が囮に?」
「そうだ」
一瞬間があった。
彼女は目を閉じ、何か思案するようにしていたが、やがて目を見開き美しい唇から鋭い罵倒を飛ばした。
「貴方って馬鹿ね」
「何だと?」
「大馬鹿者よ。ええっと、何と言うのだったかしら、スカタン、あんぽんたん、昼行灯……は意味が違うわね、ええと、カササギに脳味噌を盗まれた人?」
「どこの言葉か知らないが酷い侮辱の言葉だな」
つまり‘頭がおかしい’という意味だろう。
罵られることには慣れてはいるが、彼女の口からとなるとやはり衝撃が強い。
「そこまで俺を侮辱するのだから、理由を聞かせてもらおうか」
「あなたはユリウス殿下のことを何も考えていないと言っているの」
「考えている。だからあいつには安全な国を……」
むっとして言い返すと、彼女は首を横に振った。
「そう言うことではないわ。ただ、幼い頃にお父様もお母様も亡くなって、ユリウス殿下には貴方しかいなかったの、分かっている?」
「誰よりも承知しているつもりだ」
「だったら、どうして一人で残すような真似をするの?」
「そのためのノウラだ。あれが支えればいずれ傷は癒える」
「……癒えないわよ」
「どうして言い切る?」
「奇しくも貴方がいったのよ。弟さんなら優しい王になると。元々優しい気質の方なんでしょう? なら思わないわけがないじゃない」
「何を」
彼女は顔の表情を消した。
「‘僕にもう少し力があれば’」
「っ……」
ぎくりとした。
あの弟ならば確かにそう思うだろう。言い当てられて驚いたというよりは、彼女の声音があまりに無機質だったからだ。感情をまるで含んでいない、冷たさも暖かさも感じられない空虚な声。
それが、本当に弟の口から出たように聞こえたのだ。
「たった一人の兄よ。どんなことがあっても信じたいと思う。だから貴方が何を考えてそうしたか位すぐに分かるわ。だから、彼は自分を責めるのよ。周りがどんなに慰めても、立ち直ったように見えても、ある瞬間心の中によぎる。……あのとき、自分にもっと力があれば、別の方法が見つかったかもしれないのに。死なせずに済んだのかも知れないのに」
「まるで経験があるというような口ぶりだな」
皮肉を込めて言った言葉だった。
その言葉が射抜いた言葉であることにすぐに気が付く。
彼女は色々な感情をいり混ぜたような複雑な表情で僅か微笑んだ。
「死なせずに済んだのかも知れないわ。私には私が王族だからという理由で守られる理由は理解できなかった。私なんかのために彼が死ぬ理由なんか理解できなかった」
「お前、それは……」
彼女は微笑む。少し自嘲の混じった笑みだった。
「そう言ったらある人に叱られたわ。‘私なんか’なんて言ったら駄目だって。自分を否定するのはいけないことだって。彼の行為まで否定してしまうって。それに、彼が私を守ったのは彼自身がそうしたかったからであって、私が気に病む事じゃない、そうも言われたわ」
「セルディか?」
「まさか。兄様にその話をしたら‘結構馬鹿で安心しました’と言われたわ」
イディーは軽く吹いた。
それは彼なりに励ましたのではないだろうか。
「そう言う理由で自分を責めないようにしているけれど、忘れられるものじゃないわ。何かがあると思い出す。自分を責めたくなる。それがこんな事態ならなおのこと彼の記憶の仲に深く刻み込まれる。貴方が亡くなったら、彼は一生自分を責めると思うわ。せめてもっと自分に力があったなら、兄上を支えられたのに」
「………」
時間が解決するだろうとは言えなかった。
あの弟の事だ。自分が死んでも人前では笑っているだろう。心配かけまいと穏やかでいるのだ。でも一人になれば苦しむ。それを支えるのはノウラだと思っていた。確かにノウラは支えになってくれるだろう。真夜中に意味もなく叫びたくなるような感情を包み込んでくれるだろう。だが、やはりある瞬間心の中によぎる。
自分でさえ先王が身罷った時、もう少し年と知恵があればあるいは父親を救えたかも知れない、そう思ったのだ。その感情は未だにどこかで燻っている。
復讐することが父の為ではなく、弟の為にと思っている今でも。
「確かに国は救えるかも知れない。でもそれじゃあ一番救いたいものが救えないわ」
「………」
弟に平和な国を。
与えさえすれば、弟は幸福になると思っていた。
イディーは苦く笑った。
「確かに、俺は大馬鹿者だな」
気づいただけマシになっただろうか。