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「………ライラが?」
ユーカは怪訝そうに問う。
「天使とかでなく?」
彼女が悪魔のようだったなんて、にわかには信じがたいのだろう。ユーカはおそらく今の彼女しか知らない。今のライラを悪魔と結びつけるのは難しいだろう。
まして、これだけ彼女を敬愛し褒め称えるケイスナーヴが言う言葉として違和感がある。
「はい、姿形は確かに奇跡のように美しかった。子どもの姿ではありましたが、天使にも見えたでしょう。けれど、身に纏う気配が深い闇のように静かだったんです。あれは普通の子どもではない気配でした」
捕らえられているケイスナーヴが見た少女は、他の姫達がそうするようにきらびやかなドレスで身を包んでいる訳では無かった。黒い簡素なドレスを纏い、手にはとても子供が理解できそうにはない分厚い本を抱いていた。
それが姫だと知ったのは彼女の側にいた大人が彼女のことを「王女殿下」と呼んだ時だった。それまで彼はそれが人ですらないように思えていたのだ。
少女の姿を見てただ美しいと思っていた。死神というものは美しい少女の姿で現れるのだと一瞬の本当にそう思いこんだ。
だが、それがティナの姫だと知った瞬間、ケイスナーヴの中には炎に似た怒りの感情が生まれていた。
思いつく限りの汚い言葉で彼女を罵った。とても女子供に聞かせるような言葉ではなかった。それでも、彼女はその剣幕に驚きこそすれ、言葉を浴びせられたことには驚いている様子はなかった。あのときの年齢ならば意味まで分からないにしても怯えるのが普通だろう。でも彼女はそれすら無かった。
むしろ彼女の周囲にあった暗い気配が和らいだようにさえ見えたのだ。
「あー、何となく分かった」
呆れたようにユーカが言う。
「何がです?」
「ライラは聞いたことのない未知の言語に興味を持ったんだ。罵詈雑言とかそう聞いたことないでしょ。ちっちゃい頃のライラ。んで、何か面白いし、ケイス君も助けられて一石二鳥ってことで、自分の側近に欲しいとか言い出したんじゃないの?」
ケイスナーヴは苦笑する。
さすがにライラが「親友」と呼ぶだけのことがある。説明には少し足りない言葉だったが、彼女の動機としてはほぼその通りだ。
「まぁ、概ね正解ですね」
「あれ、でもそれじゃあライラの側仕えの人はどうしたの? まさかいなかった訳じゃないでしょう?」
「いえ、その時はいませんでした」
「その時は?」
「はい、その時はです。それ以上はライラ様が話されるのを嫌う事ですので、私の口からは申し上げられません」
言い切ると、ユーカは少し考え込むように首元を掻いた。
「まぁ、そう言うこともあるのかな……」
彼女の言葉に応える代わりにケイスナーヴは微笑んだ。
言えることではないが、ケイスナーヴの前任者はライラを守るために彼女の目の前で命を落としている。彼が初めてライラに会ったとき、その事件からほんの一月しか立っていないことを後で知った。
その「辛い経験」をした五歳の娘は、罵ることでさらに深いところにたたき落とそうとした男を許すどころかそのまま受け入れたのだ。
「私としては反発心の方が大きかった。いっそその場で首を落とせ、とさえ言いました」
憎しみの対象の王族に仕えるぐらいなら死んだ方がマシだとさえ思ったのだ。
だが半ば強引に契約をした上で、五歳の子供は優美に微笑んで言い放ったのだ。
「‘死にたいなら勝手にどうぞ’と」
「え? それ本当に五歳児?」
「私の処遇を決定するまでに少々時間がかかりましたから、もうすぐ六歳になられる位だったと思います」
「さっすがライラ。ちっさいころから安定してんのね」
「今なら私もそう思えます」
当時は勝手に助けておいて何という言い草だと思った。
そして仕えるふりをしながらいつか寝首を欠いてやろうと思っていた。
だが無防備に眠る少女を見ると手がかけられなかった。それどころか次第に彼女に惹かれていったのだ。
強く見えて脆いところもある普通の少女。ただ誰よりも優しい。
「不思議な方です。はじめは嫌味なくらい頭の良いだけの扱い辛いクソガキだと思っていました」
「あ、言っちゃおう」
「いいですよ、直接申し上げた事がありますがら。まだ私も若かったということです」
「今のケイス君なら考えられないよね。そんなこと言っちゃった日には……」
「今すぐここで自害します」
冗談めかして言ったが、目は笑っていない。
本当にやりかねない気がしてユーカはそれ以上追及しなかった。
「ライラはんで、何て言ったの?」
「‘自分でもそう思うわ’と。優美に笑っておいででした」
ユーカは声を立てて笑う。
「言いそう」
「あの方は本当に聡明な方です。そして人を惹きつける力をお持ちです」
「分かる。私だって最初なんか取っつき悪いわがままなタイプの人かと思ってたもん。なのにさ、つきあうとすっごく良いやつなんだよね。で、それに気づいたら最後。地獄の果てまで付き合える気分になる」
「私はあの方が成そうとすること全てをお支えしようと思いました。例え、それが最終的にあの方の命を縮めることになってもです」
「わお、意外。君は命をかけてでもライラをお守りする人だと思ってた」
「それでお守りできるならそうしますが、あの方が志し半ばで倒れてしまうよりずっとマシだと思っています」
おそらく、ラティラスに対する印象は人によって全く異なると思う。
普通に見れば美しいだけの娘だ。少し付き合えば頭が良いことがすぐに分かる。だが、もっと付き合っていくと目が離せなくなる。人を惹きつけてやまない何かがあるのだ。
その何かは人によって受け止め方が違う。
ユーカは彼女とともに歩きたいと思い、ケイスナーヴは支え続けたいと願った。
そのどちらも執着心だろう。
「あの方の御身が無事であることは分かっています。もし何かあれば他ならぬ私自身が気づきますから。無論気がかりといえば気がかりです。怪我をされていないか、されているとしたらどの程度のものか。でも、それは些細な事です」
「ライラって確か治癒術持っていたよね。怪我しても大抵自分で直せるもんね」
「その通りです。私が一番気がかりなのはあの方がお怒りになったことです」
「……あの暴走魔法、やっぱりライラ?」
はい、と彼は頷く。
「恐らくそうです。あの方が暴走を起こすほど我を忘れお怒りになるのは滅多にあることではありません。だからそのことの方が気がかりなんです」
我を忘れるほどの事があった。
それはおそらく誰かが彼女を庇って大怪我を負ったのだ。彼女は自分の目の前で人が自分を庇って死ぬ瞬間を見ている。だから、そのことに強い拒否反応を示す。彼女が必要以上に強くあろうとするのはそのせいなのだろう。自分を守ろうとしなくていいと周囲に示すことで、彼女自身を守っているのだ。
万が一、彼女を守った相手が命を落とすようなことがあれば、彼女は再び深く傷つく。それは、けしてあってはならないことだ。肉体が傷つけられるよりもなお悪い。
だからケイスナーヴは自分の前任者の男が嫌いだった。身体を張って守るのは確かに側仕えとして当然のことだ。だが、それによって彼女の心は傷ついた。表立って表現することはないが、彼女は今もそれで苦しんでいる。だから嫌いなのだ。そして、それ以上にケイスナーヴは自分自身が嫌いだ。同じ状況に陥ったのなら迷わず彼女を助ける行動を起こすことが分かっているから。
「ライラは大丈夫だよ」
「そうでしょうか。あの方はああ見えて弱い面を持っています」
「んーん、脆そうに見えて強かなんだよ。それにさ、私がいるし、ケイス君もいる。だから大丈夫」
「心強いお言葉ですね。私よりよほどライラ様を信頼なさっている」
「信頼とかと違うんじゃないかな。ライラみたいなのにはケイス君みたいに過剰な心配するのと、私みたいに楽天的なのと両方必要ってこと。……とと、ちょっと状況変化有りみたい」
ユーカは立ち上がる。
彼女の髪が室内だというのに風で揺れていた。
「ちょっと出かけて来る。一応ごちそーさま」
「お戻りになられたらまたお食事なさいますか?」
「もちろん! だからたっぷりご飯用意して待っててねん」
「お待ちしております」
ケイスナーヴは背筋を伸ばして頭を垂れた。