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指先が震えるのを隠すようにノウラは自分の手を握りしめる。
恐ろしいことが起こってしまった。
十四年もの間玉座に座ってきた男が偽物とわかり、その捕縛の為にデュマが向かった先で、彼が欄干から落ちて亡くなってしまった。
遺体こそ発見されていないが、あの急流では助からないと、元々サイディスのことを良く思っていなかった側の者たちは彼の死を確認するよりも前に「国王病死」として国民に発表した上で、ユリウスを玉座に据えようと行動を始めた。
実際、まだ国民に彼の死は発表されていない。
だが今まであれだけ市井に情報が流れていたのだから、時間の問題だろうとも思う。
ノウラは今度はユリウスの婚約者となる。そう父親に告げられた時はさすがに衝撃が走った。まるでそれではノウラが王の隣に座ることが重要であり、王がどちらでも構わないということにならないだろうか。
それに何よりも、ノウラにはサイディスが偽物であったと言うことが信じられなかった。
他の者たちも同様に真実がどちらであるか考え倦ねている様子があった。国王代理として形式的に玉座に座ったユリウスは、冷静な態度で大祭までは口外無用、真実を明らかにするようにとだけ伝え、そのまま自室にこもりきりになった。
「……大丈夫ですか?」
呼びかけられてノウラは顔を上げる。
紅茶の入った容器をノウラの前に差し出しながらオードが心配そうにする。
「ええ、大丈夫です。少し気が動転してしまって」
はじめは何を言われているのかさっぱりわからなかった。心配してジンが駆けつけて来なければ混乱して何をしていたかわからないだろう。冷静になった今でも、まだ何が起こったのかがはかり切れていない。
あまりに突然すぎたのだ。
「……あの、オード様、本当に陛下は偽物だったのでしょうか」
「それは……」
「ジュール様が幼い陛下をさらったというのは事実だそうです。そうである以上可能性があるのは否定できません。実際にあの頃陛下の世話役に当たっていたメイドたちが何人も辞めさせられ、その足取りを追ったところ、ほとんどが自殺や病気で亡くなったと聞きます」
「十四年間、閣下がお調べになっていたそうですね」
ノウラは頷く。
「父は先王陛下が身罷られた事を酷く不審に思っていました。尋常な亡くなり方ではなかったからです」
「はい。……申し上げ難いことですが暗殺と騒がれました。私も当時疑いを掛けられ西の塔に投獄されました」
「あの時と状況が似ていると思いませんか?」
オードは言葉に詰まったような表情を浮かべてノウラを見返した。
何かまずい事を聞かれたというよりも、ノウラからそんな言葉が出てくるとは思っていなかったというような表情だ。
ノウラは目を閉じ、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「オード様、私には、陛下が偽物であったとは思えません」
王位を継承したのはまだノウラが五つの時だ。ディロードの娘として懇意にしてもらっていたとはいえ、ノウラは王としてのサイディスしか知らない。
確かに素行に関しては良いといえるものではなかった。市井に降りて遊び、戻ってくれば昼間で寝ている。女遊びも激しかった。だが彼は立派な王だった。どんなに素行が悪く、政に参加せずいたとしてもただの飾りの王には見えなかった。時折発せられる彼の言葉には重い力があったのだ。
だから、どうしても偽物であったとは思えない。
「陛下はこうなることを覚悟していらっしゃったのではないのでしょうか」
「覚悟ですか? 自分が偽物として玉座を追われることを?」
「わかりません。ですが、いつか誰かが先王陛下の時のように自分を、と考えていたのでは無いでしょうか。だからあの方はいつでも周りを試していらっしゃった。私にはそう思えるんです」
「十四年もの間、周囲を謀っていたと?」
頷く。
裏切る相手、裏切らない相手、それを見極めるように彼はずっと周囲の様子を窺っていた。
「何故、そう思われるんですか?」
「私は陛下に謝って頂いたんです」
「謝る?」
「私との婚約を決めるとき、あの方は私に危険な役目を押しつける事になる、幸せは望めない、それでもディロードの娘でなければならない理由があると、そう仰いました。そしてただ頭を下げられたのです」
その彼が王でないはずがない。
血筋の問題ではない。むろんそれもまた正しいと信じているが、血筋だけが人を王にするわけではないのだ。
「私はあの方が真実王であったのだと思います。そうなれば父は取り返しの付かないことを……」
不意に手を握りしめられ、ノウラは戸惑った声を上げる。
「オード様?」
オードは彼女の手を握りしめ、まるで祈るような素振りで自分の額へと押し当てた。
「……王のものでなければ、貴女をこのまま連れ去っていたのに」
彼は愛おしい者を見つめるように彼女の瞳を覗き込んだ。
純粋なエテルナード人でありながら、ミーディルフィール家の人間は髪の色も瞳の色もエテルナード人とは違う。澄んだ泉のような瞳が、ノウラの深い青を見つめる。
彼がこんな風な素振りを見せたのは初めてだった。
ノウラは戸惑う。
「貴女は閣下の子に生まれたというだけで、過酷な運命を背負わされてしまっている。私は、貴女に女性として当たり前の幸せを得て欲しかった。こんな事で心を苦しめたり、その身を危険に晒すなんて事あってはならないんです。それなのに……」
苦しそうにオードは目を閉じる。
何か言葉を探してもがき苦しんでいるようだった。
ノウラは首を横に振る。
「いいえ、オード様、私はこの国に生まれたんです」
「……」
「そして、ディロードという立場に生まれたのであればそれだけの責任と義務があるんです。当たり前の幸せはきっと得られないでしょう。ですが、私はそれで幸せなんです」
先王オルジオのもっとも近くにいたのは、今は亡き王后フィニスと幼い兄弟たちをのぞけばデュマ・ディロードだった。そこに生まれた自分が、どんな運命を歩むか。あの父の元で育てられたのだから理解しない訳がない。
サイディスに頭を下げられた時、ノウラのその理解は覚悟に変わった。
それに迷った訳ではない。父親の考えている事が分からず不安だっただけだ。
「だから、父がどんな行動に出たとしても、私がやるべき事は変わりません」
「お父君を疑っていらっしゃるんですか?」
「疑う、のとは違うのだと思います。おそらく父と私は見つめている先が違うのだと思うんです」
言葉にしてようやく考えがまとまってくる。
そう、父親はおそらく国の行く末を見ている。そして自分の見つめる先にあるのは、国王サイディスと王弟ユリウスの存在。だから、ノウラには父親の考えている事の半分も理解できない。不安になったのはそのためだ。
ノウラは背筋を正して凛とした口調で言う。
「私は、あの方を信じます」
「ノウラ様……」
「例えあの方がお戻りにならなくても、あの方の想いを信じます」
言い切ったノウラの手からオードの手が離れる。
オードは少し残念そうな、それでいてどこかほっとしたような表情を浮かべて微笑んだ。
「私は、少し覚悟が足りなかったようですね」
「覚悟ですか?」
「そうです。私は貴女を連れて逃げ出す覚悟も、陛下を信じる覚悟も足りませんでした。正直言えば、私は陛下や閣下がお考えになっていることを理解していました。でもそれがあまりにも壮大すぎてどちらも信じることが出来なかったんです。それでも、もう覚悟を決めました」
オードはぐっと表情を引き締めた。
「果たすべき責務を果たします」