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記憶にある彼は左手の手首から先が切れて無くなっている男だった。何年も昔に無くしたのか、はたまた初めから無かったのか、指先や踵と同じように非常になめらかな肌をしていた。
男はとても器用だった。片手で何でもこなし、一枚の紙を幾度も折って形を作る紙細工も器用こなしたかと思うと、同じ手で見事な剣捌きを見せる。少女には男よりも自分の方がよほど手に不自由をしているようにさえ見えた。
だから彼女は男の片手が無いことに同情的になったことはなかった。不満もなかった。何よりその手が好きだった。手首から先のない手は指先のように器用に動かないけれど、暖かで上手く右手を助けている。
それがまるで魔法を使っているようにも見えたのだ。
一度だけ、多分記憶に残っているその一度だけ、少女は彼に向かってどうして手がないのかと尋ねた事がある。
男はただおかしそうに笑って、
『その時フウはとてもお腹が減っていたんです』
そう答えた。
『フウの手には宝石が付いていたんです。お腹が空いていた時、あめ玉のように美味しそうに見えたんです。だから食べてしまいました』
イタズラっぽい笑い。
幼くとも聡い少女が冗談と思うことを想定して男は言ったのだろう。だが、少女は男の言葉を信じていた。経緯はどうあれ、男が自分の手を食べたのは本当なのだろうと幼い少女は思ったのだ。
『いたくなかったの?』
ようやく二本足で歩くことを覚えたばかりのような稚い子供の発言に、男は苦笑を浮かべた。
『おやおや、信じていらっしゃいますか』
『だって、ほんとうのことでしょう?』
『すみません、冗談です』
『フウはうそをつくとき、おはながひろがるのよ、しってた?』
男は慌てて鼻先を押さえる。
少女は鈴を転がしたように笑った。
『うそよ』
『これは……姫様に喰わされましたねぇ。ええ、本当です。本当に食べてしまったんですよ。でも、これは内緒です。……いいですか、姫様、フウと二人だけの秘密ですよ』
『わかった、誰にも言わない』
約束ですよ、姫様。
そう言った男の顔が苦痛に歪んだ。
分かっている。
これは夢だ。
夢だから、あの日に繋がってしまう。あの日と、フウと約束を交わした日は別の日だ。けれどやはり全てはあの日の記憶に繋がる。
『姫様』
フウは笑っていた。
苦痛に表情を歪めながらも尚も笑顔を作っていた。
『すみません、姫様。最後までお守りすること出来ませんでした』
幼い自分が何を言ったのか覚えていない。
覚えているのはずるりと落ちるフウの身体の感触と、ぬるりとした血の感触。
あの日のことは、そこから先夢でも思い出すことは無い。
「………っ!」
声にならない悲鳴を上げてライラは目を見開いた。
殆ど何も見えない薄暗い場所だった。ほんの僅か光を感じていなければ、自分の目が見えていないことも疑っていただろう。水の匂いのする場所だった。
夢を見ていた。
しかし、それがどんな夢だったかが思い出せない。
自分は今まで何をしていたのだろうか。
思い出そうとしてライラは身を起こす。
ずるりと身体から滑り落ちたものを見てぎくりとした。
人の衣服だった。
誰の、を理解するにはさして時間はかからなかった。
「起きたか?」
声をかけられて再びぎくりとした。
巨剣を握った男が真後ろに立っていた。その巨剣は仄かに光を帯び周りを照らしている。光に照らされ浮かび上がった人物を見てライラは息を飲んだ。
彼は穏やかに微笑む。
「目を覚まさないからどうしようかと思ったよ。調子の悪いところはない?」
「あなた……怪我は?」
ライラはイディーに問う。
彼女の上に欠けられていた衣服には背の当たりに穴が空いている。軽く折りたたみ、ライラに直接触れないようにされていたが、それには血が付着していた。
記憶通りなら彼は射抜かれたはずだ。
それなのに平気そうにしている。
彼は少し怪訝そうにした。
「覚えていないのか? 君が治したんだよ」
「私が?」
イディーが射抜かれたのを見て頭の中が真っ白になったところまでは覚えている。だが、そこから先の記憶はない。
「治してすぐに倒れたから魔力の使いすぎだと思ったが……何分俺は魔法に関しては知識も心得も無くて、どうしていいか分からなかった。大丈夫か?」
「ええ、取り敢えずは大丈夫のようよ。それよりここは?」
イディーは首を振る。
「俺も気が付いたらここにいたから正確には分からない。おそらく地下水道だと思うが」
言って彼は剣をかざして見せる。
ゆらゆら揺れる水面が映し出された。確かに地下水道のようだ。水が澄んでいるところを見ると生活用水として使われる方だ。下水道でなかったことを感謝した。
「城の地下水道と繋がっているなら……」
彼は言いかけて硬直した。
その瞳はライラの左目を凝視している。
はっとしてライラは片目を押さえた。
「お前、その眼……」
「軽い魔法酔いよ。すぐに治るわ」
おそらく今ライラの左目は赤い。
強い魔力に反応し普段の若草の瞳から赤く変わる瞳は、尋常の人ではないことを如実に語るものだ。自分がティナ王の血を引きながら同時に竜族の血を引いているのは知っている。それを知ったからこそ城を離れる決心が付いたのだ。
竜族の血が流れる「人間」はこの世に数える程しかいない。兄弟たちすら殆ど知らない隠された事実だったが、それを差し引いてもライラは異端だった。どちらにしても人にしては魔力が強すぎたのだ。ティナ城内では精霊返りのために強い魔力を持ったと言われているが、それだけではない事をライラ自身が一番知っている。
魔力で変色する瞳は中でも顕著に表れる人以外の証。
竜族の血を流している事が嫌なわけではない。むしろあの優しい叔母やマヤと同じ血を引いていると思うと嬉しく思える。血の繋がらない叔父も優しくしてくれる。
それでも人間ではないことを思い知らされることは気持ちいいことではなかった。
まして、人が目の前にいる少女が人間ではないと知った時どんな反応を示すのか知っている。せめて自分が竜族のように竜の姿を持っていたのならそれも仕方ないと割り切れただろう。生憎、ライラは産まれてこの方人間以外の形になったことがない。
直接驚異的な力を見せた訳ではない。化け物と罵られることは無いだろう。
でもおそらく不審な目で見られることは避けられない。
多くの人がそうだったように、彼もまた特殊な目でライラを見るのだろう。
彼女は彼の言葉を覚悟して目から手を外した。
赤い瞳が少し不穏な輝きを帯びた。