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「殿下!」
メイドに呼び止められるのも聞かず彼は怒り心頭の様相でずんずんと廊下を進んだ。その腋には大量の書類が挟まれている。あとは王の許可の印を待つだけの重要書類だった。
「殿下、なりません、陛下はまだお休みに……」
「もうすぐ昼だよ。まだ寝ているぐうたらに遠慮することはない」
「ですが、誰も通すなと……」
食い下がってくるメイド達に、鬱金のような金の髪を持つ青年が振り返った。まだ少年とも呼べるほどの幼い顔立ちをしているが、その目からは正義感のような意志の強さを感じた。
彼は苛立ったように言い放つ。
「これで誰かが責めを負うなら私が責任を取る。もっとも、昨日寝ずに書類を仕上げた私に兄上が文句を言う筋合いなどないと思うが」
「ユリウス殿下!」
メイドの咎めるような声を無視してユリウスは国王サイディスの寝室のドアを蹴破るように開け放った。
はらはらした様子のメイドを閉め出すようにユリウスは乱暴にドアを閉めた。
エテルナード国王、サイディス・ラーディ・エテルナードは在位十四年になる。先王を幼い時に亡くしたために若くして国王となったサイディスはすぐに玉座に飽いて派手な遊びを好むようになった。
沈まぬ大国と呼ばれるこの国の王がそれではいけないと諫める者も多かったが、そのうちに誰もが彼を見限り彼がいなくとも治められる仕組みを作った。彼が国王らしい振る舞いをする時は外交で国王がいなければならない場面と式典祭典の時のみ。そうでない時には城内に美女を招いて豪遊するか、あるいは市井に降りて賭博に興じているか。
財政を管理しているジュールが厳しく取りまとめているおかげで国政を荒らすほど使い込んでいないのがせめてもの救いだ。
この昏君の弟であることが時々疎ましくさえ思える。
「兄上、起きて下さい」
「……んー? あれ、なんだ、ユリィ。結局入ってきたのか。可愛いけど使えないメイドだなぁ。あとでお詫びのちゅーくらいしてもらわないと」
間延びした声で男は言う。
天蓋のついた大きなベッドの上で眠る男はのっそりとした動きで上半身を起こした。裸だった。
書類をサイドテーブルに置いてユリウスは彼にガウンを投げつけた。
「あて」
「羞恥心が欠片でも残っているのなら今すぐ服を着て下さい」
「だってユリィだけだろ? 問題な………あーはいはい、着ますよ、すぐに」
ユリウスが睨み付けるとサイディスは面倒そうにガウンを着込んだ。
エテルナード人は元々大柄な人間が多い。特に男性は長身で体格も良く、他の国では普通の体格と言われるユリウスは小柄な方に含まれる。サイディスの方はエテルナード人としても珍しいほどの巨漢だった。先代王もまた大柄な人だったから父親に似たのだろう。逆にユリウスは母親の方に似てしまったようだ。
盛大なあくびをしながらサイディスは弟と同じ色の髪をかき混ぜた。
「で、何の用だ?」
不機嫌そうに言う王に、弟は不機嫌に返す。
「書類に印を頂きたいのですが、陛下」
「んーー? そんなんお前やっとけよ。王の弟なんだからさー、そのくらいの権限……」
「ありません。有事で不在で正式な名代を務めるならばともかく、あなたが城内にいる以上、私の権限で動かせるものには限界があるんですよ。分かっていらっしゃると思いますが、陛下?」
弟は満面の笑みを浮かべているが、明らかに作られた笑顔だった。
サイディスは口をへの字に曲げる。
「うーん、めん……」
「……倒くさいとか言ったら暗殺するぞ、このぐうたらクソ兄貴が」
「うっ……弟から謀反の企みを聞かされた」
本来ならば弟であれ大問題になる発言だったが、兄は気にすることなく、少し肩を竦めただけだった。
「嫌なら仕事して下さい。私は昨日徹夜でしたから文句はありませんよね、兄上?」
笑顔で言われ、兄は盛大な息を吐いた。
彼は仕方無さそうに指先を動かす。
印を押す書類を持ってこいと言っているのだ。
ユリウスはベッド用の簡易テーブルと一緒に書類の束を渡す。王は枕の下に隠してある王の印を出し殆ど見もせずに書類に印を押し始めた。
細かく調べて渡しているからいいものの、これでいい加減な書類を混ぜていたらどうするつもりなのだろうと頭痛がしてくる。
ユリウスはベッド脇の椅子に腰掛けた。
「何だ、監視付きか?」
「兄上はすぐに仕事を放りだしてしまいますからね」
「ご苦労なことだ」
「誰のせいだと思っているんですか」
苦く笑って彼は肩を竦める。
「いっそお前が王になればいいものを」
「それは何の嫌味ですか」
ふてくされた様子で弟は兄に背を向けた。
兄を見ているとイライラした。いい加減でだらしがなく、知る者からは暗愚と呼ばれる王。最近では城下の方にまでその噂が流れ始めている。なのに、一向に気にする様子を見せない。ただ飄々と笑って、女に酒に博打。見ていて苛立った。
けれど、ユリウスにしてみればただ一人の兄なのだ。ほんの六つくらいの時にはもう既に肉親と呼べるのは兄しかいなかった。だからどんなに周囲から悪し様に言われても、兄は兄なのだ。
変えられない事実。
それが苛立ちの最大の原因。
「ユリィ」
「何ですか」
「お前はノウラのことが好きか?」
「なっ……」
突然言われ、彼は椅子から立ち上がる。
顔が紅潮しているのが自分でも分かった。
「何ですか、いきなりっ」
「やはり図星か。だがアレは王のものだ」
兄の目にはそんなに欲しているように見えただろうか。
うつむいて答える。
「わ、分かっています、そんなこと」
「分かっていないな、王のものでなければノウラ・ディロードの名に何の意味もない。そして価値もない」
「何と言うことをおっしゃるんですか、兄上!」
棘を含んだような物言いに我慢ならずに声を上げる。
彼は意地の悪そうな笑いを浮かべる。
「価値がないものには興味はない。お前にくれてやってもかまわん。あれもその方が幸せになれるだろう」
「彼女はものではありません」
「知っている。だからかまわんと言っているんだ。だが、今はまだだめだ」
「言っている意味が分かりませんが」
「まだノウラには価値があるということだ」
「……価値って……人をなんだと思っているんですか」
「駒だよ。城に居る者達は国を動かす為の駒にすぎん」
とん、と彼は書類をまとめそのまま簡易テーブルごと弟の方に押しつける。
「さぁ、終わったぞ。早く持って出て行け」
「……っ!」
奪うように受け取って、彼は入ってきた時と同様に乱暴にドアを開いて出て行く。苛立っている様子の彼の声とメイド達の高い声が混じり、やがてそれは遠のいていった。
外に人の気配が無くなったのを感じ取り、サイディスは小さく笑んだ。
これは本格的に嫌われただろうか。
弟は昔からノウラのことを好いていた。元々華やかな舞台の苦手な弟だ。外交よりも内政に携わっている方が性に合っているらしい。だから、着飾った香水臭い社交界の女達よりもそれとは少し縁の薄いノウラの事を気に入ったのだ。
ディロード家が王城に詰めるほどの家柄になったのは先王オルジオがその軍功を評価してからだ。長く続く貴族と違いまだ人を多く雇うほどの余裕はない。そのディロード家に生まれた一人娘は父親に付いて度々城を訪れていたから当然面識があった。
年が殆ど変わらないところもあったのだろう。大人しく謙虚な彼女とユリウスはすぐに親しくなったのだ。ノウラ自身もこの身勝手な王よりもユリウスの方がよほどいいだろう。自分の妻になるよりも弟の妻になる方が自然だったかもしれない。
それを奪った上にモノのように扱ってはさすがのユリウスも本気で怒っただろう。
だが、それでいいのだ。
「……推して知るべし、だ」
まるで自分にいいきかせるように彼はぽつりと呟いた。




