10
「ノウラ様はいらっしゃらないのですか?」
オードの問いにデュマは頷く。
まいったな、とオードは少し長い前髪を撫でた。
戸惑った時に彼は前髪を触る癖がある。デュマは若い頃から彼の父ネバ・ミーディルフィールと交流があったために、オードの事は幼い頃から知っている。そのころから変わらない印象的な癖。この仕草を見たのは随分と久しぶりだった。
状況が状況なら懐かしさに笑うこともあっただろうが、今はとてもそんな気分になれなかった。
王の姿がないのはいつものことだったが、ノウラまでも二人の護衛を連れて城内から姿を消した。それだけならいい。本当にそれだけならば良かったのだ。
それに加えて王弟ユリウスの姿も消えた。
理由や行き先についてはおおよそ想像が付く。
だが、三人同時にいなくなったのは少々都合が悪い。
他に勘付かれる前に連れ戻すか、あるいは悟られないようにするしかないだろう。
デュマはオードを見る。
「ユリウス殿下が居られないことを他に知る者は?」
「おそらくいないかと。父上にはまだ何も伝えていませんし、ジュール卿は今朝から籠もっているようですから」
「あの男は聡い。私が知った時点で既に知っていると考えたほうがいいだろうな」
べらべらと誰かに話すような男でもない。口止めする必要はないだろうが、それとなく言っておく必要はあるだろう。
ふう、とデュマは息を吐く。
「オード殿、このことは」
それ以上言う必要がないとオードが頭を下げる。
「心得ています」
「済まない」
言いながら歩き始めた時だった。
曲がり角から飛び出してきた影に激突する。
ぶつかってバランスを崩した影が声を上げた。
デュマが反射的にその腕を掴む。
見習い兵の姿をした少年だった。
その黒髪に覚えがあり、デュマは目を開いた。
噂をすれば何とやらだ。
本人ではないがジュール卿の噂をしているときに、一人息子と遭遇するとは偶然と言うには出来すぎた話だ。
一瞬警戒をするがデュマに激突した当人はただ驚いた様子でデュマを見上げた。
「え、あ……ディロード閣下!?」
「城内の廊下は走るものではないよ」
「あ、す、すみません……」
やんわりと注意をすると彼は慌てたように頭を下げた。
オードが少し心配そうに声を掛ける。
「レント君……だったよね? 大丈夫? 顔色が悪いようだけれど」
「はい、あの大丈夫です」
頭を下げるレントの顔色はやはり悪かった。
聞かれたのかとも思ったが、それでレントが蒼白になる理由が見つからなかった。頭が悪いわけではないが、彼は若く経験が浅い。城内で起こる些細な変化の意味するところを理解しているようには思えなかった。
実際デュマの見解は正しかった。
彼は話を聞いているわけではなかったし、聞いたところでそうと勘ぐるだけの思考はなかった。
その時のレントの頭の中は先刻立ち聞きした話をどうするべきかと言うことで一杯だったのだ。
「体調が優れないのであれば少し休むといいだろう。ジュール卿のご子息に無茶をさせて嫌味を言われるのは私だからね」
柔らかい、でもやや厳しさの混ざった口調でデュマが言う。
焦ったようにレントが遮った。
「あの、そうじゃないんです。調子が悪いとか、そういうことではなくて……あの」
二人は互いの顔を見合わせる。
様子が明らかにおかしい。
オードが父親ゆずりのおっとりとした口調で言う。
「落ち着いて、レント君。……何があったのか話してみてくれるかい?」
「はい……あの」
優しい口調にようやく緊張が解けたのか、レントは自分が見てきたことを事細かに説明をした。
途中興奮して早口になることもあったが、彼の説明は丁寧で分かりやすかった。さすがコルダ・ジュールの息子というところだが、感心している場合の内容ではなかった。
話を聞いていく内にデュマは自分の表情が強ばっていくのを感じた。
「……それ、本当なの?」
「はい、間違いないです」
レントは真剣な表情で頷いた。
嘘を言っているようではない。これで嘘を付いているのなら、彼は父親以上のものだろう。
「ジュール卿には?」
「まだ伝えていません。俺が伝えたところで、まともに取り合ってくれないと思いますから」
「他に言った人は?」
いない、とレントは首を振る。
「あの、俺、どうしたら……」
「この件は私が対処しよう。状況がつかめ次第お父上にも伝えることもあるだろうが、今は誰にも言わないで欲しい。いいね?」
「あ……はい」
些か落胆したようにレントは頷く。
デュマは硬い表情を少しだけ緩めた。
「しかし、良く知らせてくれた。もしもこれから先、その二人を見かけることがあったのなら真っ先に私に知らせてくれるか?」
「は、はい! もちろんです!」
少し暗かったレントの表情が急激に明るくなる。
それに笑い、期待しているとでも言うようにデュマはレントの肩をぽんと叩いた。
嬉しそうにしながら立ち去るレントを見送ってオードはくすくすと笑う。
外見こそ数歳しか変わらないように見えるが、レントとオードは二十ほどの年の差がある。早くに子供をもうけていたなら自分の子供と言っても可笑しくないくらいの年代の子供の浮き沈みを見て、可笑しくなったのだろう。
「無茶をするなと言われれば反発したくなる年頃ですからね、私も覚えがあります」
「彼はまだ若い」
「そうですね、これからの国を背負う世代です」
「オード殿も、だ」
言われてオードは困ったように笑う。
「私は一度死んだ身ですからね。無茶はする気にはなりませんが、躊躇うこともしませんよ」
「それは冤罪であったと証明がされているはずだろう」
いいえ、と彼は首を振る。
「私が真実罪人であるかは問題ではないんです。疑われるようなことをしてしまった自分が、何よりも恥ずかしい」
「あなたは……城内を生きるには少し優しすぎるようだ」
少し憤慨を混じらせた哀しげな表情のデュマとは対照的に、オードの顔に浮かんだ笑顔はとても優しいものだった。
その笑顔で誤魔化して、オードは「その話はおしまいにしましょう」という風に話題をすり替える。
「そういえば、今年は間に合いそうですよ」
「間に合いそうとは?」
「朱の果実です。去年は気温が低くて収穫が間に合いませんでしたが、今年は豊作で祭りでは多くの人に振る舞えると父が喜んでいましたよ」