13
「兄上っ!」
部屋に入るなり叫んだ弟にサイディスは苦笑した。
メイドに身支度を手伝わせながら彼は答える。
「……起きているよ」
「当然です! 昨夜のことですが……」
「報告は受けている。俺の命を狙うなど、変わった趣味の者もいるものだな」
「悠長に言っている場合ではありません!」
ぴしゃり、とユリウスは言う。
対照的に彼は笑いを漏らす。
「被害はここの窓と傭兵一人が怪我をしただけと聞く。その怪我も、傭兵自身が自ら切りつけ教会の者が治療を施し完治している。何を慌てる必要があるという?」
割れた窓は既に元に戻されていた。
王が戻る前にとすぐに作業が行われたのだ。彼が城内に戻った時にはまだ作業が行われていたが、さすがに早くに済まされた。
「……あなたが、狙われたのですよ?」
「だから何だ。実際に俺はいなかった。怪我もない。問題は何もない」
「ですが、兄上!」
それ以上言うな、とサイディスはユリウスの目の前に指を突き立てる。
「お前達、下がれ。後は自分でやる」
はい、とメイド達は返事を返し、衣服やシーツを抱えて部屋の外へと出て行った。
ばたん、と扉が閉められ、部屋の中には兄弟二人だけが残された。
座れ、と示すようにサイディスはベッド脇のソファを示した。
兄に促され弟は大人しくそれに従う。
「狙われることがあれば俺も大人しく玉座にいると思ったか」
「……」
「一箇所に結界を張れば目立つ。それを目印に俺のいないのを狙って襲わせたか、馬鹿者が」
ユリウスは顔を上げる。
「やはりそうか」
言われて、鎌を掛けられたことに気が付く。簡単に引っかかってしまったことに恥じうつむいた。
サイディスはぞんざいに床の上に座った。
顔を覗き込むように見つめられユリウスは前髪を触る。もう少し髪が長ければ表情も完全に隠せただろう。
「お前は分かりやすいな」
「……」
「故に甘い」
一言で切り捨てられ、ますます恥じ入る。
甘いのは重々承知している。だが、改めて指摘されるとそれが救いようのない欠点だと思い知らされる。
「甘いお前のことだ。傭兵があそこまで有能だと思っていなかったのだろう。予定が狂い、焦ってボロを出した。予定ならばもっと上手くこなせていたのか?」
「……私は、部屋に結界を張ることしかやっていません」
サイディスは興味深そうに弟を見る。
うつむいたまま続ける。
「あなたが城内に戻る頃に襲わせるつもりでした。あなたにも、危険と認識させるために。ですが、実際昨夜は私が予定していなかった侵入者があったのです」
「では、傭兵が証言したという‘赤い瞳の小柄な者’というのはお前の配下の者ではないと?」
「城内兵士を眠らせたのも違います。確かに兵を眠らせるつもりではいましたが、私の用意したものではありません」
くっ、とサイディスは笑う。
「実に、面白い」
「兄上!」
咎めるように声を上げたユリウスは、兄の表情に気が付き一瞬戸惑った。
その笑みが、いつもの兄とは随分違って見えたのだ。自嘲するでも、揶揄するでもない、まるでそれは仇敵に出会ったかのような凄艶な笑み。
こんな表情を浮かべているのを見るのは初めてだった。
こんな表情をする人だっただろうか。
残忍にさえ見える、暗い笑み。
正視出来ず目を逸らす。
怖いと思った。
兄の存在が。
「妙な気を起こすな、ユリィ。俺を狙えばいくらお前だろうと裁かねばならぬ事もある。今回のこれは、非常訓練だ。そのように処理をしろとデュマには伝えてある。だが次があれば庇いきれない」
「……はい」
「王は俺だ。暗愚であろうと、凡主であろうと、それに代わりはない。狙うのであれば相応の覚悟が必要だ」
サイディスは弟の方に近付き、そっと顔に手を伸ばす。
おそるおそるユリウスは彼を見返す。
微笑んでいた。
いつになく穏やかな優しい笑み。
先刻の恐ろしさは微塵もなかった。
「お前は俺に玉座に座れと言う」
「あなたは私の兄です。父上が身罷り、私とあなたしかいなかった。ようやく右左の分かるようになった幼子よりも、年長である兄上が玉座にいるのは当然の事です」
「そう、だから王位についた。だが、あの頃と状況も変わった。俺に何かあればお前しかいない」
「っ」
何故兄はこんな事を言う?
こんな優しい顔で。
「お前は王子と呼ばれる間が少なかったな」
サイディスが王になってからは王弟、殿下と呼ばれる。
そんな名前など関係がない。
兄は何を言おうとしているのだろう。ユリウスには突然別れの言葉を口にされたようにしか聞こえない。そんな哀しいことは、耐えられない。
「手本を見間違うな、ユリィ」
「手本?」
「間違っても俺を手本にするな。残った子供が二人とも愚かであれば、さすがに父上も浮かばれないだろう」
「何を仰っているんですか? 兄上、私は……うわっ!?」
彼の大きな手が、ユリウスの肩を引く。
強い力で引き寄せられバランスを崩す。
そのまま兄の上にのし掛かり、抱きしめられた。
「……俺は一つ賭をする。王にあるまじき危険な賭だ。もしも負ければ俺はきちんと玉座に座ろう。だが、俺が勝てばお前が座れ。お前ならば優しい王になるだろう」
「ど、どういう意味ですか? あなたは一体何を……」
「ユリィ」
耳元で呼ばれて、ぎくりとする。
幼い頃の愛称のままで呼ばれるのは嫌いだ。けれど、その名前で呼ばれるたびに、兄には逆らえないことを知る。好きなのだ。自分より低い声で呼ぶ優しい響きが。ただ一人、自分を「ユリウス」として見てくれる兄が。だから逆らえない。
兄には絶対に。
「簡単に死んでやるつもりはないよ。大丈夫だ。お前を一人残したりしたりしない」
「……」
「信じて待て」
強い言葉だった。
「誰を信じられなくなっても、俺の言葉だけは信じろ。だから今暫く待て」
それはずっと待っていた言葉だった。
兄が何を考えているのか分からない。
だが、皆の言うようにただひたすら暗愚であるとは思えなかったのだ。だから、兄の言葉を待っていた。
兄が愚かではないと確信出来る言葉を。
ずっと、待っていた。
「信じています、兄上。今までも、これからもずっと」
「良い子だ」
兄の手が、髪を撫でる。
大きな手。
自分とは比べモノにならない大きな手。
それなのに、暖かで優しい。
ユリウスは目を閉じてその優しさを噛みしめた。