10
ゆらり、と視界の端で何かが揺らいだ。
ユーカは振り向いた。
一瞬、別行動を取っていた親友が戻ってきたのかと思ったが、それは違った。
大きな木の下に、赤い髪の少女が佇んでいる。背格好はライラによく似ていたが、彼女とは服装も髪の色も異なった。
月のない夜だというのに、彼女の回りだけぼんやりと光を帯びていた。
「誰?」
問いかけると、少女がこちらに気が付いたように顔を上げる。
青い瞳の少女だった。親友ほどではないが、顔立ちは美しく、左頬に赤い紋様が描かれていた。
暁術使いだろう。
大昔、一番始めに人間が魔法を使った時には「紋章術」という紋章を使った魔法が使われた。今はもう紋章術の伝承自体が曖昧であり、力ある紋章を描ける者がいない。「暁術」は近年その紋章術の研究中に偶然生み出された新しい魔法だった。
彼女の頬に描かれている紋様がどんな意味のものなのかは分からなかったが、紋章が描かれている以上、彼女が暁術使いである可能性は高かった。
衣服は白いローブ。
赤銅の髪は地に付きそうな程長い。
城の魔術師団に属する女だろうか。
ユーカは警戒するように一歩後退った。
『…………?』
少女が何かを呟いた。
聞き取れずにユーカは首を傾げる。
「今、何て言ったの?」
少女は再び何かを呟いた。こちらに、何かを問いかけているのがようやく分かる程度の小さな声だった。
ユーカは袖の端から隠し持っていた針を気付かれないように引き出しながら彼女の方へと近付く。万が一攻撃されてもすぐに応戦出来るようにもう一方の手で鉄扇を掴む。
『……は…の国の……?』
途切れ途切れに声が少しずつ聞こえてくる。
風の国の聖主、彼女は確かにそう言ったように聞こえた。別に隠すつもりはないが、この国に来て宣言した覚えはない。ユーカは警戒心を強める。
『風の聖主?』
「そうよ」
答えると、彼女は少しほっとしたように微笑む。
一瞬、ユーカは戸惑った。
『まだ……は見捨てては…かった』
「見捨てる?? 何それ」
『導きに……風の、導きに』
「風の導き? 何? それがどうしたの?」
少女はゆっくりと巨大な木を指差した。
『……の、写本を』
「は?」
『お願い、燃やして』
最後の言葉だけははっきりと聞こえた。
その言葉だけを残し、少女の姿が揺らいだ。
一瞬、何が起こったのか、ユーカには理解が出来なかった。
少女の姿がまるで離散するように跡形もなく消え去ったのだ。
「……ふぇ?」
魔法の気配がしたのならば魔法を使って移動したと考えればいい。暁術の中には一度異空間に繋げる事で場所を移動する術がある。
だが、魔法の気配はしなかった。
「……ってことは、今の幽……」
「おい」
「ぎゃあああ!!!!!」
突然後方から肩を叩かれ、ユーカは悲鳴を上げる。
慌てたように口元に手が押しやられた。
「まっ……お前な、真夜中にそんな悲鳴をあげるなっ!」
「……? あれ、あんた昼間の?」
昼、酒場で声を掛けてきた男だった。
確か、イディー・ヴォルムと名乗っていた。
男はにっと、軽い笑みを浮かべる。
「そ。こんなトコで何してるんだ? 女の子が、真夜中の一人歩きは危険だぞ?」
「あんたこそ、こんなトコで何してんのよ」
「お城周辺の見回りだよ。お仕事中~」
傭兵の仕事なのだろう。なるほど、とユーカは男を見上げる。
思っていたよりも背が高かった。大柄な人間が多いエテルナードでも彼は大きい方に入るだろう。
「それで何か怪しい人でも見かけたの?」
「全然。可愛い女の子は佇んでいたけどね」
「……」
「あれ、反応無し? 冗談でも何でもなく君のこと、可愛いと思うんだけどね」
「胡散臭いわよ。そもそも、あんた、ライラが目的なんでしょ? 将をナンタラ作戦なら失敗ね」
男が薄く笑う。
「その、ライラちゃんは今どこ?」
ユーカは覚えずしまったと思う。
今、ライラは城内にいる。予定ではもう暫く掛かるはずだ。ヘタにつつかれてボロを出したら彼女に迷惑がかかる。ここはひとまずイディーを鉄扇で殴り飛ばして笑いながら逃げるという「愉快犯になりきって話を誤魔化す作戦」で行くべきか。
ぐ、っと手に持った扇子に力を込めた時だった。
「私なら、ここよ」
声が聞こえユーカはそちらを向く。
「宿に忘れ物をして取りに戻っていただけ。何か、用でもあるの?」
ライラは言いながらゆっくりと歩いてくる。ようやく顔が確認出来る位の位置で立ち止まった。片目が前髪で完全に覆われているため、隻眼の人のようにも見えた。
イディーはにこりと笑った。
「いや? 単純に君に会いたかっただけだよ」
彼はその笑顔のままで首を傾げる。
「知人に会うって言っていたけど、この辺の人?」
「そうよ」
「こんな深夜に?」
「深夜でないと都合が悪い人もいるでしょう?」
「なるほど、女の子二人だと危険だから送ろうか?」
「結構よ」
ライラは冷たい声でいう。
どうやらよほど彼のことが嫌いらしい。
彼女に声をかけてくる男は少なくない。その容貌があまりに美しすぎるために、近寄りがたい雰囲気も漂わせるが、それを差し引いても声を掛けたくなるほどに美しい。同性であるユーカでさえ彼女の姿を初めて見た時は凍り付いたくらいに。
それだけ頻繁に声を掛けられるのだから、対処は手慣れたものだった。けれどユーカが知る中でこれだけ冷たく接しているのは彼が初めてだ。
その冷たさにも怯むことなく、イディーはくすくすと笑う。
「冷たいねぇ。そう言うのも結構好みだけど」
「あなた、女なら何でも良いの?」
「そんなことないよ、俺は気に入った女の子にしか声をかけたりしない。だって、気にかかるだろう? 君たちみたいな綺麗な子」
ライラは呆れたように髪を掻き上げる。
澄んだ緑の双眸が、少し面倒そうに細められる。
「あなたと話をすると、誰かを思い出して凄く嫌だわ」
「誰かって?」
ライラは微笑んだだけで何も答えなかった。
「ユーカ、行きましょう」
「あ、うん」
「もう、行っちゃうの?」
「あなたと話すのならば昼間がいいわ。明日の昼、今日の酒場で会いましょう」