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「父上にですか?」
ユリウスは不思議そうに問う。
「そうだ」
「父上は何と?」
「南の王を訪ねよ、と」
ユリウスは瞬いた。
南の王、そう呼ばれるのは砂の国サラブの王のことだ。エテルナードとサラブは国交が無いわけではないが、同じ大陸に有りながらも北側と南側であり二つの国の間には隔たりがある。故に極端に関わり合う訳ではないし、二つの国を国の要人が行き来することは間に挟まれている国々を刺激する。今まで極力ひかえられて来たことだ。
それを先王自らがそうせよと言ったのだ。
病床の、それも死を間近にした王が。
サイディス自身もそれをどう受け止めて良いのか分からなかった。あの状況を知らないユリウスならなおのことだろう。
ただ、あの病の床で見た真剣な眼差しの父親。
病人だとて軽んじることの出来ない言葉だった。
「それは、一体どういう意味なのですか?」
「分からない。だが、今ユクは枯れそうになっている。俺は枯れてしまう前に南の王に会う義務があると思う」
彼は背筋を伸ばした。
弟としてのユリウスではなく王佐としてのユリウスの顔だ。
「では、火急に使者を立てます。陸海どちらにせよ武装して進むことになりますから、イクトーラへも使者を立てる必要がありますね。早急に手配します」
サイディスは首を振った。
「いや、その必要はない」
「兄上?」
「砂の王には俺一人で会いに行く」
「そんな危険な!」
「武装して進むのはかえってそこに要人がいると言っているようなものだ。単身で進んだ方が危険も少ない。そもそもそんな大所帯で行けばどれだけの資金と時間が掛かると思っている?」
「しかし、兄上一人で向かわれるのはあまりにも危険なことです。貴方に万が一のことがあればこの国は救われません」
「会うのは俺一人だが、護衛を付けない訳じゃない。南に詳しく、腕の立つ男が一人いるだろう」
少し考えて弟は答えを出す。
「ジン・フィスのことですか?」
「そうだ。あれを雇い南に向かう」
「ですが、王の不在は……」
サイディスはバルコニーの手すりに肘を突く。
夜風が少し冷たくなり始めて来ていた。
「遊学でもしていると誤魔化してくれ」
「……無理がありますよ。それに兄上がいない間国政はどうされるおつもりですか。まさか私に全権を預けるとは仰いませんよね?」
「そのつもりだ」
「何を仰っているんですか、兄上!」
咎める口調。
それはどんなに兄が仕事をせずに遊び回っていても、ユリウスが絶対に許さなかったことだ。預けると言われて受け取れるものではない。ユリウスにとって最高権限を持っているのは王であり、その王は兄なのだ。自分が最終の決定の印まで握ってしまえば何かが終わってしまう気がしたのだ。
国王は静かに彼を見返す。
「何もお前にやるとは言っていない。王は俺だ。俺の存命中は誰一人玉座に座ることを許さない。たとえお前であっても禁を犯せば首が吹き飛ぶことを覚悟せよ」
「!」
ぞっとするような苛烈な瞳。それでも暗さを感じない。
ユリウスはその場に叩頭してしまいたい衝動を何とか抑えた。
王の瞳をしている。
そう、兄は生まれながらにして真実王だった。それはユリウス自身がよく知っている。この人ほどエテルナードの王に相応しい人物はいない。
「ユリウス」
不意に兄の瞳が優しくなる。
「長く不在にしているつもりはない。俺が南から戻るまでのしばらくの間、デュマとコルダと共に国を支えて欲しい。混乱があった直後に俺がいなくなれば、内部が乱れることは承知している。だが、この時代の王になったからには俺がやらなければならない義務がある」
本当ならば乱れた国を正す必要があるだろう。弟の側にいたいという気持ちもある。
だが立ち上がることを待っていて取り返しの付かない事態になることだけは避けたかった。
王である以上先を見なければいけない。現状も見なければいけない。どちらもないがしろに出来ない。だから最善を考えねばならないのだ。
最善は何か。
考えた挙げ句サイディスが出した答えは自分が個人として南の王を訪ねること。勘でしかないのだが、急ぐ必要も感じていた。
「俺は行く。お前が止めても、だ」
「……兄上がそのようにお決めになったなら、私は反対出来ません」
ユリウスは目を伏せる。
泣くのかと思った。
声音は震えていた。だが、顔を上げたユリウスの表情は泣いてはいなかった。まして怒ってもいなかった。
「それでも、貴方は王で、私の兄です。それを………それを絶対に忘れないで下さい」
くすりとサイディスは笑う。
彼が生まれて20年、そして自分が王になって十四年。
片時も兄であること王であることを忘れた事は無かった。
「当然だろう」
言うとユリウスはうつむく。
「兄上、少し後ろを向いてくれませんか」
「うん?」
言われるままに後ろを向いた瞬間、弟が背に抱きついてきたのが分かった。
「ユリィ?」
「振り向かないで下さい!」
叫ばれて振り向きかけていたサイディスは慌てて前を向く。
「……もう暫く、こうさせて下さい」
甘えるような声。
腰に回された手は涙を堪えているように微かに震えている。
サイディスはその手を握る。
自分よりも随分と小さい。それでも、父を亡くした直後に握った手よりも随分と大きくなっている。
「あれから、十四年も経ったんだな」
独り言のように呟くと背中で頷いた気配を感じる。
「……はい」
あの時守らなければならないと感じていた子供の手のひらは、すっかり大人の手に変わっていた。