第一幕 佐倉時宗の受難 其の一
夏に比べて薄青く広がる空はたくさんの千切れ雲をたたえていた。
上空は強い風が吹いているのであろうか、雲はゆるゆる形を変えながらすべるように流れていく。
佐倉時宗は庭に出て、随分と秋めいてきた天を見上げていた。
奉行所勤めを辞めてすぐに月代を伸ばし始め、その髪はまだ少し短いものの、後に流した総髪に整えてあり、気楽な隠居暮らしが伺える。
しかしその顔は神妙であり、まるでこの国の行く末を愁うようにもみえた。
時宗はため息をついた。
そして、息子である一真を呼びつけた。
「一真。お前、何かしただろう」
「何かって、なんですか?」
一真は縁側に出てきた。
一真には隠し事があったのだ。
内心、それに触れられることをひやひやとしながら過ごしていたのだが、ついにそれがバレてしまったと思い身を固くした。
「お前、刀を使っただろう」
「ええ、まあ・・・。何故、それを知っているんですか?」
「あれだ」
時宗は、頭上を指をさした。
指の先には柿の木がある。
その天辺近くの枝の先に、毛を逆立ててがたがたと震えているみいちゃんの姿があった。
「あっ、ああ・・・そっちか」
思惑と違った一真は胸をほっとなでおろした。
「何かよほどの恐ろしい思いをしたに違いない。おそらく、お前が恐ろしい殺気でも出しながら、刀を振り回したのだろう」
「はあ、そうでした」
今日は非番なので、一真は思う存分朝寝をしていた。
そんな心地のよい朝に、あの愚猫は思いっきり寝ている胸に飛びのってきたのだ。
一瞬、息と心臓が同時に止まった。
驚いて、目を開けると猫は悪びれもなく胸の上に鎮座している。
殺意が芽生えるのも当然だろう、一真は傍にあった脇差を抜いた。
みいちゃんは驚いて、ぎゃん、と鳴くと雨戸に向かって走って逃げた。
そして、うにゃうにゃと鳴きながら必死にかりかりと雨戸を引っかく。
一真は起き上がって雨戸に近づくとその雨戸を開けてやった。
さすがに自分でも大人気ないな、と気づいたのである。
そうしていつもどおりの朝を迎えると、そのままみいちゃんのことは忘れてしまっていた。
「まさか、まだ根に持っているとは」
一真も柿の木を見上げた。
「降りられなくなっているんだろう。たすけてやりなさい」
一真は、無表情で時宗を見た。
「嫌がるな。俺には剣術指南の仕事があるのだ。体が資本なのだよ。落ちて怪我をするわけにはいかないのだ」
神妙な面持ちで時宗は言った。
「私だって、仕事はあります。第一、猫は嫌いです」
一真もまた無表情に答える。
「ふみゃああああ」
みいちゃんが、情けない声で泣き出した。
「ああ、みいちゃん。大丈夫かね。すぐに、助けてあげるぞ。ほら、一真、登りなさい」
一真は背中を押されて、しぶしぶ登りはじめた。
今年で八年目を迎える柿の木は、小さく青い実を少しつけ始め、その枝葉も屋根よりも高く伸ばしていた。
一真はそれをひょいひょいと登っていくと、みいちゃんのすぐ下に手を伸ばした。
「ほら、みいちゃん、来い」
みいちゃんは、真っ黒な瞳をして、一真を見ている。
見開かれた目とは裏腹に、混乱しすぎて周りが見えていないようだ。
「みいちゃん、大丈夫だ。一真に近づきなさい」
時宗が下から声をかける。
みいちゃんは下をみて、時宗を見つけると嬉しそうに、にゃあと鳴いた。
そのままお尻を軽く振り、枝からふわりと離れた。
「危ない、落ちるっ」
一真は、反射的に手を伸ばした。
途端に一真の体は体制を崩した。
みいちゃんが時宗の伸ばした腕の中に見事着地したのとほぼ同時に、一真は柿の木から派手な音をたてて惨めに落ちた。