暗殺剣・犬鷲 其の五
「あらっ真咲様。大丈夫ですか?まあ、なれない包丁などお持ちになるから・・・」
加代が心配そうな声で「いま、薬を持ってきますから」といい、家を出る音がした。
時宗が真咲の様子を見に行くと、先のほうに赤い血をぷっくりと盛った指を抱え、真っ青になっている真咲が呆然と立っていた。
「何だ、かすり傷じゃないか。どんな大事かと思ったら」
そういってその指先を自分の口に持っていった。
真咲は吃驚したようで慌てて指を引っ込めようとしたが、時宗はそれをたしなめた。
「大体の傷は舐めておけばなおるんだ。こうしておけば血も止まるからしばらく大人しくしていなさい」
言い終わるか終わらないかの内に同僚たちが、その様子をはやし立てた。
「なんだ、もう熱々じゃないか。俺たちはお邪魔かあ?あんまり見せつけるなよな」
「神妙そうな面して助兵衛な事ばかり考えているんだよ、こいつは。人ん家のこといえないじゃないか」
朔太郎達がけらけらと笑い、真咲はぼうっと赤くなった。
「からかうな。俺は大真面目なんだぞ。助兵衛って何だ、朔太郎。こないだの仕返しか」
ムッとしながら同僚達を睨むと野次は一層大きくなった。
ふと、盛り上がっている同僚たちの後ろに、ぽつんと座っている岩木に気づいた。
いつもの自信ありげな様子からはとても伺えないような、何だか物悲しそうな表情をしていた。
その目にはおそらく白無垢を着て顔を真っ赤にほてらせている、この妹が映っているのであろう。
本当に、本当に大事なものを手離したような寂しそうな顔であった。
真咲の手当てを済ませると、時宗は再び岩木の元へ寄っていった。
「殿、暗殺剣のことは他言無用にございます。先ほども言ったとおり、あれは大量に人を殺す事もできる物騒な剣でございます」
岩木は頭の切れる人である。
欲しがっている暗殺剣のことをそう簡単に漏らすとは思わなかったが、念を押しておきたかったのだ。
しかし、岩木は意外な事を告げた。
「残念ながらもう、漏れておる」
時宗は驚いて、岩木を見た。
「わしも、知っているのはわしだけだと思っていた。しかし、この縁談を進める過程でな、若年寄から警告を受けたのじゃ」
老中や、若年寄などに予め根回しをしながら、真咲の縁談を進めていた岩木はこの日、城内でその話を詰めていた。
「左衛門はしかし、変っておるのう。よりによって、町方同心とはなあ。真咲姫の器量であれば、もっとよい縁もあるじゃろうに」
何も知らない老中は、不思議な顔をしながらも、岩木の顔を立て、この縁談を了承した。
その場に居た若年寄もそれに合わせて承諾してくれた。
岩木はニコニコと愛想よく笑いながら、ではよろしく、と席を立つ。
そして、廊下を歩いていたときである。
若年寄が、後から廊下を歩いてくる。
岩木は辞儀をしてそれをやり過ごした。
そのすれ違いざまに、若年寄はいった。
「お前だけが、佐倉を知っていると思うなよ」
「ほう。何のことでございますかな」
岩木はとぼけた。
若年寄は、立ち止まって振り返る。
「俺自身は、暗殺剣とやらに興味はないのだがな。どうも、庭番衆がざわめいておるのだよ。全く、伝説みたいなものなのになあ」
そういって、本当に興味なさそうにため息をついた。
「とんでもない話です。あやつは刀はできますが、暗殺剣なんぞの柄じゃありません」
そういって腕を組み、うんうんとうなずいた。
「まあ、気をつけることだな。庭番衆は、一度絶えた剣をのどから手が出るほど欲しがっている。あれは、任務に最適な暗殺剣だとかいってな。お前が突然目をかけたことで、暗殺剣の伝授が今も行われているのではないかと、にわかに期待が膨らんでいるようだ。俺は、やつらを止めも進めもしない。せいぜい、身を護るように義弟になる男に告げる事だな」
そういって、若年寄は廊下を再び歩き出した。
「気をつけましょう」
岩木はその後姿を見送りながら、そう呟いた。