護りたい人 其の二
今ならまだお互いにやり直しがきくであろう。
時宗はそう心に決めると、構えをなおして刃先を垂直にその白い首に当てた。
「はあっ」
大きな気合を入れる。
「きゃあ!」
その気合に驚き、お槙は地面にうずくまった。
「姫っ!」
同時に男達が刀を抜いてお槙の前に出てきた。
若い男達は、時宗を睨みながら、お槙を後手にかばう。
時宗は刀を収めた。
「失礼仕りました。岩木様の妹君、真咲姫であられますな。数々のご無礼、誠に申し訳ございませぬ。このような無粋で無礼な男のことは早々にお忘れになられますように」
深々と頭を下げると、後ろを振り向くことなく池のほとりを歩いて去っていく。
「時宗様っ」
真咲という名の姫は、地面に座り込んだまま、時宗を呼んだ。
「騙してしまい申し訳ございません。けれど、お慕いしているのです。初めてお会いしたときから」
時宗は歩みを止めずに背中で聞いた。
やがて悲鳴のような嗚咽が聞こえてきた。
それをなだめる男達の声も聞こえてくる。
時宗は、天を仰いだ。
旗本と御家人とでは家の格が違いすぎる。
稀に与力と同禄の旗本が結婚することはあるが、岩木家は三千石。時宗は三十俵二人扶持。
あまりにも差がありすぎる。
それだけではない。
家同士がいくら認め合っても、上司に届けが必要なのが武士の結婚だ。
岩木家の場合は将軍の許可、幕閣達の承諾が必要である。
時宗の場合は同心組の組頭といったところであるが、そもそも奉行の縁談を蹴っているわけであるから簡単に許可が出るはずもないのだ。
岩木が言うほどこの結婚は簡単なものではないことを、時宗はよく分かっていた。
それでも真咲の泣き声は、時宗の心を痛いくらいに刺した。
先ほどまでの何も知らない自分であれば、一も二もなく女を抱きしめて慰めもしたろう。
しかし、想う女は高嶺の花で、時宗の手には到底届かない場所で咲いているのだ。
お互いがこれ以上惹かれあえば、夫婦約束が出来ない分別れる事がつらくなる。
これでいい。これでよかったのだ。
浅草寺まで戻ってくると、人の波がまた大きくなり、時宗はその人の流れに身を投げ出すように埋もれていった。
奉行所での嫌がらせはだんだんと収まる気配を見せていた。
きっぱりと岩木家の縁談を断ったことが功を奏したらしい。
同時に岩木からの使いも幾度か面会に訪れていたが、時宗はそれも断っていた。
奉行は、時宗のその態度がどうやら気に入ったようだった。
「あの男に見込まれたのは災難だったな」
奉行所ですれ違ったときにそう声をかけられこともあった。
しかし、時宗はぽっかりと穴が開いたように空虚な毎日を過ごしていた。
傷口が広がる前にあきらめようとした女の事が気になって仕方がなかったのだ。
そんなある日の事であった。
「殿が、佐倉様にぜひとも謝りたいと仰せでございます。足をお運びいただけませんか」
幾度目かですっかり馴染みになってしまった使いの家臣が、時宗の家を訪れた。
時宗はうんざりしたようにいつもと同じことを言った。
「申し訳ないがあのような事があった以上、もう某は岩木家の門をくぐれませぬ。殿にはそのように申し伝えください」
しかしこの日は引き下がる事がなかった。
「もし、佐倉様がそのようにおっしゃれば、殿はこう申せといっておりました。佐倉の家の大事を知っておるのは佐倉家のみではないぞ、と」
時宗は、目を見張る。
佐倉の家に秘事があることを岩木が知っている。
秘密がどこからか漏れたのであろうか。
「来ていただけますな」
家臣の言葉に、時宗は神妙な面持ちを崩さずにうなずいた。