水面
引っ越して十日目に、気づいた。
コップの水が、傾いている。
台所のテーブルに置いた麦茶の、表面だった。
右側だけが、ほんのすこし低い。
古いアパートだから、床が傾いているのだと思った。
家賃五万八千円。
築三十四年。
初めての一人暮らしには、ちょうどいい部屋だった。
実家までは、電車で四十分。
引っ越しの日、母は味噌と米と片手鍋を置いていった。
「なにかあったら、すぐ帰ってきなさいよ」
大げさだな、と笑った。
なにかあるなんて、母も、わたしも、思っていなかった。
スマートフォンに水平器のアプリを入れた。
テーブルは、〇・〇度。
床は、〇・一度。
ほとんど水平だった。
けれど、コップの水面は、目で見てわかるほど斜めになっている。
最初は、面白いと思った。
動画を撮った。
母に送ろうとして、やめた。
再生した画面では、水面がまっすぐだった。
何度撮り直しても、同じだった。
画面から目を離す。
水は、傾いている。
画面を見る。
水平になっている。
その日から、家にある水を確かめるようになった。
味噌汁。
湯呑み。
ペットボトル。
洗面台に張った水。
どれも、おなじ向きに傾いていた。
低い側が、寝室とは反対を向いている。
間取り図を描いて、矢印を書き込んでみた。
台所から。
浴室から。
リビングから。
家じゅうの矢印が、ひとつの場所から逃げていた。
寝室の、押し入れだった。
◇
押し入れは、その日のうちに開けた。
襖に手をかけたとき、中から、かすかな音がした。
ぺた。
水に濡れた手を、床についたような音だった。
動けなくなった。
耳を澄ませた。
それきり、何も聞こえない。
気のせいだ。
そう決めて、襖を開けた。
何もなかった。
空の衣装ケース。
前の住人が残した突っ張り棒。
奥の板に、黒っぽい染みがひとつ。
鼻を近づけると、古い水槽のような匂いがした。
襖を閉めようとして、気づいた。
押し入れの床板に、濡れた跡がある。
小さな手形に見えた。
けれど、指が六本あった。
瞬きをした。
ただの染みに戻っていた。
わたしは襖を閉めた。
何もなかったことにした。
何もない場所を怖がっている自分が、いちばんおかしいと思った。
◇
それから、水面の傾きは、毎朝すこしずつ深くなった。
六日目。
味噌汁が、椀の縁からこぼれた。
椀は、水平なテーブルの上に置いてあった。
表面だけが斜めになり、茶色い汁が、寝室とは反対側へ流れ落ちた。
九日目。
湯船の湯が、壁際に集まった。
排水口とは逆の方向へ、こんもりと盛り上がっていた。
湯のない側に、わたしの裸の足がある。
湯の集まった側は、寝室とは反対だった。
浴室の水まで、押し入れを嫌っている。
雨の日には、ベランダの水たまりが動いた。
風はない。
床に傾きもない。
それでも水は、細い筋になって、寝室の窓から遠ざかっていった。
部屋の外の水まで、知っている。
このころには、わたしにもわかっていた。
水は、嫌いなものから逃げる。
寝室で寝るのをやめた。
布団をリビングへ移した。
押し入れの襖には、養生テープを貼った。
一枚。
二枚。
三枚。
襖が見えなくなるほど、貼った。
意味がないことは、わかっていた。
それでも、貼っているあいだだけは、手を動かしていられた。
「あんた、声が変よ」
電話で母に言われた。
「仕事が忙しいだけ」
「ちゃんと寝てる?」
「寝てるよ」
嘘だった。
夜になると、押し入れのある壁から音がした。
ぺた。
ぺた。
狭いところで、誰かが手の位置だけを変えている。
そんな音だった。
母は、今度の金曜日に泊まりに行くと言った。
断れなかった。
本当は、来てほしかった。
一人でなければ、あれは出てこない。
なぜか、そう思っていた。
◇
金曜の夜、母が泊まりに来た。
その夜だけ、水は傾かなかった。
コップの麦茶も。
味噌汁も。
湯船の湯も。
何も知らないような顔で、まっすぐになっていた。
「どこが傾いてるのよ」
母は、わたしが描いた間取り図を見て笑った。
「疲れてるんじゃない?」
「……そうかも」
「仕事、無理してないでしょうね」
「してないよ」
それ以上は、話せなかった。
水が逃げるから。
押し入れに何かがいるから。
そんな説明を、声にしたくなかった。
口に出したら、あれに聞かれる気がした。
母は、寝室に布団を敷いた。
押し入れの前だった。
「そこは、やめて」
思ったより大きな声が出た。
母が振り返った。
「どうしたの?」
「そこ、寒いから」
「別に寒くないわよ」
「リビングで寝ようよ」
「二人じゃ狭いでしょう」
母は笑いながら、押し入れの前に横になった。
貼り重ねた養生テープが、母の頭のすぐ上に見えた。
夜中。
目が覚めた。
時刻は、二時四十七分。
寝室のほうから、音がしていた。
ぺた。
ぺた。
ぺた。
いつもより近い。
わたしはリビングから、寝室の暗がりを見た。
母の寝息が聞こえる。
その奥で、養生テープが、すこしずつ膨らんでいた。
内側から。
指で押されるように。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
押された場所が、母の頭の上をゆっくり移動していく。
襖の内側で、何かが這っている。
「お母さん」
声が出なかった。
息だけが漏れた。
その瞬間、膨らみが止まった。
寝室が静かになった。
母も、寝息を止めていた。
暗闇のなかで、養生テープが一枚だけ、ゆっくり剥がれた。
母の顔の真上だった。
襖は開かなかった。
その隙間も、できなかった。
ただ、暗い板の向こうから、
すう。
すう。
と、母の匂いを嗅ぐ音がした。
わたしは朝まで動けなかった。
母は何も知らずに起きた。
「よく寝た」
そう言って、ふつうに朝ごはんを食べた。
コップの水は、まだ水平だった。
昼前、母は帰った。
玄関で靴を履きながら、もう一度言った。
「なにかあったら、帰ってきなさいよ」
わたしは、何度も頷いた。
あれは、二人のときは動かない。
そのときは、そう思っていた。
隠れているのだと。
◇
母が帰った日の夜中。
三時すぎに、目が覚めた。
枕もとには、水を入れたコップを置いていた。
常夜灯の明かりで、水面が見えた。
斜めだった。
いままでで、いちばん深く。
こぼれそうなほど傾いているのに、水はコップの縁に張りついていた。
そして、動いていた。
低い側が、ゆっくりと時計回りにまわっていく。
水は、嫌いなものから逃げる。
ならば、低い側の反対に、それはいる。
水面は、リビングの入口を指した。
テレビの前を指した。
本棚の前を指した。
窓際を指した。
見えない何かが、部屋の壁に沿って歩いている。
音はしなかった。
影もない。
ただ、水だけが、それの位置を教えつづけた。
矢印が、部屋を一周した。
そして、止まった。
低い側が、わたしの枕の真裏を向いている。
それは、わたしの頭のすぐ上にいる。
喉の奥が鳴った。
その音に反応するように、水面が、ほんのすこし揺れた。
高い側が、わたしへ近づいた。
顔を寄せてきたのだと思った。
目には見えない。
けれど、頬が冷えた。
濡れた前髪を垂らした誰かが、顔のすぐ上から、わたしをのぞき込んでいる。
天井から、水滴が落ちた。
額に当たった。
生ぬるかった。
水滴は、額からこめかみへ流れた。
耳の穴へ入った。
耳の奥で、小さな声がした。
――ちがう。
子どもの声だった。
わたしは息を止めた。
もう一度、声がした。
――こっちじゃない。
コップの水が、縁を越えた。
畳の上へ細い筋をつくり、押し入れとは反対へ逃げていく。
水の去った畳から、古い水槽の匂いが立った。
その匂いが、わたしの顔の上に降りてきた。
唇のすぐそばで、濡れた息がした。
わたしは、水面のふりをした。
動かない。
息をしない。
まばたきをしない。
平らなふりをする。
見つかっていないふりをする。
死ぬというのは、心臓が止まることではない。
声を出したら殺されるとわかっているのに、喉が勝手に息を求めることだ。
肺が焼ける。
胸が痙攣する。
それでも動けない。
あれは、ずっと顔の上にいた。
朝になって、カーテンの隙間から光が差した。
その瞬間、コップに残った水が、水平に戻った。
わたしの上から、冷たさが消えた。
押し入れのほうで、
ぺた。
と、一度だけ音がした。
◇
朝いちばんで会社に電話をした。
その足で、不動産屋へ行った。
敷金も。
礼金も。
違約金も。
何も数えなかった。
命より安いものを数えても、仕方がない。
実家へ帰った。
母は、だから言ったのよ、と笑った。
わたしの顔を見て、それ以上は聞かなかった。
わたしの部屋は、出ていったときのまま残っていた。
一週間、何も起きなかった。
コップの水は水平だった。
味噌汁はこぼれなかった。
風呂の湯も、まっすぐに張れた。
置いてきたのだと思った。
あれは、あの部屋の、あの押し入れにいるものだったのだと。
十日目の朝。
台所で、母が言った。
「この家も古くなったのねえ」
味噌汁をすすりながら、困ったように笑った。
「最近、お椀から汁がこぼれるのよ」
母の椀を見た。
右側が、ほんのすこし低かった。
母が椀を傾けているのではない。
味噌汁の表面だけが、斜めになっていた。
血の気が引いた。
「いつから?」
「いつからって?」
「いつから、こぼれるようになったの」
「あなたが帰ってきた少し前かしら」
母は、指を折って数えた。
「ああ、そうね。あんたの部屋に泊まった次の日から」
◇
その日のうちに、家じゅうの水を確かめた。
コップ。
花瓶。
仏壇の湯呑み。
やかん。
洗面器。
風呂の残り湯。
チラシの裏に家の間取りを描き、低い側の向きを矢印にした。
すべての矢印が、ひとつの場所から逃げていた。
母の寝室だった。
わたしの部屋では、なかった。
あれは、わたしについてきたのではない。
あの夜。
押し入れの前で眠った母を、覚えたのだ。
だから、あの夜の声は言った。
――ちがう。
――こっちじゃない。
隠れていたのではない。
選んでいた。
◇
それから、わたしは母の部屋で寝るようになった。
布団をぴったり並べた。
「子どものころに戻ったみたいね」
気味が悪いと言いながら、母はすこし嬉しそうだった。
二人なら、動かない。
わたしは、その規則だけを信じた。
けれど、布団を並べた最初の朝。
台所のコップは、斜めになっていた。
二人でも、止まらない。
もう隠れる必要がないのだと思った。
傾きは、毎朝すこしずつ深くなった。
三日前。
花瓶の水が、畳へこぼれた。
一昨日。
風呂の湯が、浴槽の半分まで逃げた。
昨日。
仏壇の湯呑みが倒れた。
母の寝室から、いちばん遠い方向へ。
そして今朝。
家じゅうの水面が、水平に戻っていた。
わたしは、終わったと思った。
母も笑った。
「やっぱり、家の傾きだったのよ」
けれど、昼すぎになって思い出した。
あのアパートでも、母が泊まった夜だけ、水は水平だった。
水が逃げるのをやめるのは、安全になったからではない。
あれが、いなくなったからでもない。
逃げても意味のない距離まで、来られたときだ。
◇
夜になって、母が風呂に入った。
それから、もう四十分が過ぎている。
湯を使う音がしない。
鼻歌も聞こえない。
戸の前に立った。
「お母さん?」
返事がない。
すりガラスの向こうは、明るい。
人影は見えなかった。
「お母さん、開けるよ」
取っ手に手をかけた。
鍵がかかっている。
足の甲に、冷たいものが触れた。
浴室の戸の下から、水が流れ出していた。
細い流れだった。
廊下の奥へ。
母の寝室とは反対へ。
家の外へ逃げようとするように、玄関へ向かっている。
水は、嫌いなものから逃げる。
いま。
浴室から逃げている。
わたしは戸を叩いた。
「お母さん!」
返事はない。
中で、何かが動いた。
ぺた。
ぺた。
濡れた手を、床につく音。
浴室の天井を這っている。
そう思った。
「お母さん! 返事して!」
戸の向こうで、母の声がした。
「ここにいるよ」
安心しかけた。
でも、違った。
声は、浴槽の中からではない。
天井から聞こえた。
「ここにいるよ」
母の声で、もう一度言った。
そのすぐあと。
もっと低いところから、小さな音がした。
浴槽の底を、爪で引っかく音だった。
かり。
かり。
かり。
わたしは体当たりした。
戸は開かない。
何度も肩をぶつけた。
すりガラスが揺れる。
浴槽の中の音が、だんだん弱くなる。
「お母さん!」
かり。
「お母さん!」
……かり。
「返事して!」
音が止まった。
同時に、廊下へ逃げていた水も止まった。
細い流れが、わたしの足もとで震えた。
そして。
向きを変えた。
玄関へ逃げていた水が、ゆっくり浴室へ戻りはじめた。
わたしの足の指を濡らしながら。
戸の下へ。
暗い隙間へ。
あれのいる場所へ。
水が、自分から戻っていく。
嫌いではなくなったのではない。
逃げるものが、もう一つもなくなったのだ。
すりガラスの向こうで、母の形をした影が立ち上がった。
首が、天井につくほど長かった。
影が、戸の前まで来た。
鍵のつまみが、ゆっくり回った。
わたしは後ずさった。
けれど、足もとの水は、もう浴室へ向かっていなかった。
低い側を変えていた。
水は、わたしの背後へ逃げはじめている。
戸が、少し開いた。
古い水槽の匂いがした。
母の声が、隙間から言った。
「なにかあったら、帰ってきなさいよ」
隙間から、濡れた指が出てきた。
一本。
二本。
三本。
四本。
五本。
六本。
わたしはいま、廊下の奥まで下がっている。
水も、こちらへ逃げてくる。
でも。
もう、後ろは壁だ。




