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水面

作者: K3/KASANE
掲載日:2026/07/31

 引っ越して十日目に、気づいた。


 コップの水が、傾いている。


 台所のテーブルに置いた麦茶の、表面だった。


 右側だけが、ほんのすこし低い。


 古いアパートだから、床が傾いているのだと思った。


 家賃五万八千円。


 築三十四年。


 初めての一人暮らしには、ちょうどいい部屋だった。


 実家までは、電車で四十分。


 引っ越しの日、母は味噌と米と片手鍋を置いていった。


「なにかあったら、すぐ帰ってきなさいよ」


 大げさだな、と笑った。


 なにかあるなんて、母も、わたしも、思っていなかった。


 スマートフォンに水平器のアプリを入れた。


 テーブルは、〇・〇度。


 床は、〇・一度。


 ほとんど水平だった。


 けれど、コップの水面は、目で見てわかるほど斜めになっている。


 最初は、面白いと思った。


 動画を撮った。


 母に送ろうとして、やめた。


 再生した画面では、水面がまっすぐだった。


 何度撮り直しても、同じだった。


 画面から目を離す。


 水は、傾いている。


 画面を見る。


 水平になっている。


 その日から、家にある水を確かめるようになった。


 味噌汁。


 湯呑み。


 ペットボトル。


 洗面台に張った水。


 どれも、おなじ向きに傾いていた。


 低い側が、寝室とは反対を向いている。


 間取り図を描いて、矢印を書き込んでみた。


 台所から。


 浴室から。


 リビングから。


 家じゅうの矢印が、ひとつの場所から逃げていた。


 寝室の、押し入れだった。


     ◇


 押し入れは、その日のうちに開けた。


 襖に手をかけたとき、中から、かすかな音がした。


 ぺた。


 水に濡れた手を、床についたような音だった。


 動けなくなった。


 耳を澄ませた。


 それきり、何も聞こえない。


 気のせいだ。


 そう決めて、襖を開けた。


 何もなかった。


 空の衣装ケース。


 前の住人が残した突っ張り棒。


 奥の板に、黒っぽい染みがひとつ。


 鼻を近づけると、古い水槽のような匂いがした。


 襖を閉めようとして、気づいた。


 押し入れの床板に、濡れた跡がある。


 小さな手形に見えた。


 けれど、指が六本あった。


 瞬きをした。


 ただの染みに戻っていた。


 わたしは襖を閉めた。


 何もなかったことにした。


 何もない場所を怖がっている自分が、いちばんおかしいと思った。


     ◇


 それから、水面の傾きは、毎朝すこしずつ深くなった。


 六日目。


 味噌汁が、椀の縁からこぼれた。


 椀は、水平なテーブルの上に置いてあった。


 表面だけが斜めになり、茶色い汁が、寝室とは反対側へ流れ落ちた。


 九日目。


 湯船の湯が、壁際に集まった。


 排水口とは逆の方向へ、こんもりと盛り上がっていた。


 湯のない側に、わたしの裸の足がある。


 湯の集まった側は、寝室とは反対だった。


 浴室の水まで、押し入れを嫌っている。


 雨の日には、ベランダの水たまりが動いた。


 風はない。


 床に傾きもない。


 それでも水は、細い筋になって、寝室の窓から遠ざかっていった。


 部屋の外の水まで、知っている。


 このころには、わたしにもわかっていた。


 水は、嫌いなものから逃げる。


 寝室で寝るのをやめた。


 布団をリビングへ移した。


 押し入れの襖には、養生テープを貼った。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 襖が見えなくなるほど、貼った。


 意味がないことは、わかっていた。


 それでも、貼っているあいだだけは、手を動かしていられた。


「あんた、声が変よ」


 電話で母に言われた。


「仕事が忙しいだけ」


「ちゃんと寝てる?」


「寝てるよ」


 嘘だった。


 夜になると、押し入れのある壁から音がした。


 ぺた。


 ぺた。


 狭いところで、誰かが手の位置だけを変えている。


 そんな音だった。


 母は、今度の金曜日に泊まりに行くと言った。


 断れなかった。


 本当は、来てほしかった。


 一人でなければ、あれは出てこない。


 なぜか、そう思っていた。


     ◇


 金曜の夜、母が泊まりに来た。


 その夜だけ、水は傾かなかった。


 コップの麦茶も。


 味噌汁も。


 湯船の湯も。


 何も知らないような顔で、まっすぐになっていた。


「どこが傾いてるのよ」


 母は、わたしが描いた間取り図を見て笑った。


「疲れてるんじゃない?」


「……そうかも」


「仕事、無理してないでしょうね」


「してないよ」


 それ以上は、話せなかった。


 水が逃げるから。


 押し入れに何かがいるから。


 そんな説明を、声にしたくなかった。


 口に出したら、あれに聞かれる気がした。


 母は、寝室に布団を敷いた。


 押し入れの前だった。


「そこは、やめて」


 思ったより大きな声が出た。


 母が振り返った。


「どうしたの?」


「そこ、寒いから」


「別に寒くないわよ」


「リビングで寝ようよ」


「二人じゃ狭いでしょう」


 母は笑いながら、押し入れの前に横になった。


 貼り重ねた養生テープが、母の頭のすぐ上に見えた。


 夜中。


 目が覚めた。


 時刻は、二時四十七分。


 寝室のほうから、音がしていた。


 ぺた。


 ぺた。


 ぺた。


 いつもより近い。


 わたしはリビングから、寝室の暗がりを見た。


 母の寝息が聞こえる。


 その奥で、養生テープが、すこしずつ膨らんでいた。


 内側から。


 指で押されるように。


 ひとつ。


 ふたつ。


 みっつ。


 押された場所が、母の頭の上をゆっくり移動していく。


 襖の内側で、何かが這っている。


「お母さん」


 声が出なかった。


 息だけが漏れた。


 その瞬間、膨らみが止まった。


 寝室が静かになった。


 母も、寝息を止めていた。


 暗闇のなかで、養生テープが一枚だけ、ゆっくり剥がれた。


 母の顔の真上だった。


 襖は開かなかった。


 その隙間も、できなかった。


 ただ、暗い板の向こうから、


 すう。


 すう。


 と、母の匂いを嗅ぐ音がした。


 わたしは朝まで動けなかった。


 母は何も知らずに起きた。


「よく寝た」


 そう言って、ふつうに朝ごはんを食べた。


 コップの水は、まだ水平だった。


 昼前、母は帰った。


 玄関で靴を履きながら、もう一度言った。


「なにかあったら、帰ってきなさいよ」


 わたしは、何度も頷いた。


 あれは、二人のときは動かない。


 そのときは、そう思っていた。


 隠れているのだと。


     ◇


 母が帰った日の夜中。


 三時すぎに、目が覚めた。


 枕もとには、水を入れたコップを置いていた。


 常夜灯の明かりで、水面が見えた。


 斜めだった。


 いままでで、いちばん深く。


 こぼれそうなほど傾いているのに、水はコップの縁に張りついていた。


 そして、動いていた。


 低い側が、ゆっくりと時計回りにまわっていく。


 水は、嫌いなものから逃げる。


 ならば、低い側の反対に、それはいる。


 水面は、リビングの入口を指した。


 テレビの前を指した。


 本棚の前を指した。


 窓際を指した。


 見えない何かが、部屋の壁に沿って歩いている。


 音はしなかった。


 影もない。


 ただ、水だけが、それの位置を教えつづけた。


 矢印が、部屋を一周した。


 そして、止まった。


 低い側が、わたしの枕の真裏を向いている。


 それは、わたしの頭のすぐ上にいる。


 喉の奥が鳴った。


 その音に反応するように、水面が、ほんのすこし揺れた。


 高い側が、わたしへ近づいた。


 顔を寄せてきたのだと思った。


 目には見えない。


 けれど、頬が冷えた。


 濡れた前髪を垂らした誰かが、顔のすぐ上から、わたしをのぞき込んでいる。


 天井から、水滴が落ちた。


 額に当たった。


 生ぬるかった。


 水滴は、額からこめかみへ流れた。


 耳の穴へ入った。


 耳の奥で、小さな声がした。


 ――ちがう。


 子どもの声だった。


 わたしは息を止めた。


 もう一度、声がした。


 ――こっちじゃない。


 コップの水が、縁を越えた。


 畳の上へ細い筋をつくり、押し入れとは反対へ逃げていく。


 水の去った畳から、古い水槽の匂いが立った。


 その匂いが、わたしの顔の上に降りてきた。


 唇のすぐそばで、濡れた息がした。


 わたしは、水面のふりをした。


 動かない。


 息をしない。


 まばたきをしない。


 平らなふりをする。


 見つかっていないふりをする。


 死ぬというのは、心臓が止まることではない。


 声を出したら殺されるとわかっているのに、喉が勝手に息を求めることだ。


 肺が焼ける。


 胸が痙攣する。


 それでも動けない。


 あれは、ずっと顔の上にいた。


 朝になって、カーテンの隙間から光が差した。


 その瞬間、コップに残った水が、水平に戻った。


 わたしの上から、冷たさが消えた。


 押し入れのほうで、


 ぺた。


 と、一度だけ音がした。


     ◇


 朝いちばんで会社に電話をした。


 その足で、不動産屋へ行った。


 敷金も。


 礼金も。


 違約金も。


 何も数えなかった。


 命より安いものを数えても、仕方がない。


 実家へ帰った。


 母は、だから言ったのよ、と笑った。


 わたしの顔を見て、それ以上は聞かなかった。


 わたしの部屋は、出ていったときのまま残っていた。


 一週間、何も起きなかった。


 コップの水は水平だった。


 味噌汁はこぼれなかった。


 風呂の湯も、まっすぐに張れた。


 置いてきたのだと思った。


 あれは、あの部屋の、あの押し入れにいるものだったのだと。


 十日目の朝。


 台所で、母が言った。


「この家も古くなったのねえ」


 味噌汁をすすりながら、困ったように笑った。


「最近、お椀から汁がこぼれるのよ」


 母の椀を見た。


 右側が、ほんのすこし低かった。


 母が椀を傾けているのではない。


 味噌汁の表面だけが、斜めになっていた。


 血の気が引いた。


「いつから?」


「いつからって?」


「いつから、こぼれるようになったの」


「あなたが帰ってきた少し前かしら」


 母は、指を折って数えた。


「ああ、そうね。あんたの部屋に泊まった次の日から」


     ◇


 その日のうちに、家じゅうの水を確かめた。


 コップ。


 花瓶。


 仏壇の湯呑み。


 やかん。


 洗面器。


 風呂の残り湯。


 チラシの裏に家の間取りを描き、低い側の向きを矢印にした。


 すべての矢印が、ひとつの場所から逃げていた。


 母の寝室だった。


 わたしの部屋では、なかった。


 あれは、わたしについてきたのではない。


 あの夜。


 押し入れの前で眠った母を、覚えたのだ。


 だから、あの夜の声は言った。


 ――ちがう。


 ――こっちじゃない。


 隠れていたのではない。


 選んでいた。


     ◇


 それから、わたしは母の部屋で寝るようになった。


 布団をぴったり並べた。


「子どものころに戻ったみたいね」


 気味が悪いと言いながら、母はすこし嬉しそうだった。


 二人なら、動かない。


 わたしは、その規則だけを信じた。


 けれど、布団を並べた最初の朝。


 台所のコップは、斜めになっていた。


 二人でも、止まらない。


 もう隠れる必要がないのだと思った。


 傾きは、毎朝すこしずつ深くなった。


 三日前。


 花瓶の水が、畳へこぼれた。


 一昨日。


 風呂の湯が、浴槽の半分まで逃げた。


 昨日。


 仏壇の湯呑みが倒れた。


 母の寝室から、いちばん遠い方向へ。


 そして今朝。


 家じゅうの水面が、水平に戻っていた。


 わたしは、終わったと思った。


 母も笑った。


「やっぱり、家の傾きだったのよ」


 けれど、昼すぎになって思い出した。


 あのアパートでも、母が泊まった夜だけ、水は水平だった。


 水が逃げるのをやめるのは、安全になったからではない。


 あれが、いなくなったからでもない。


 逃げても意味のない距離まで、来られたときだ。


     ◇


 夜になって、母が風呂に入った。


 それから、もう四十分が過ぎている。


 湯を使う音がしない。


 鼻歌も聞こえない。


 戸の前に立った。


「お母さん?」


 返事がない。


 すりガラスの向こうは、明るい。


 人影は見えなかった。


「お母さん、開けるよ」


 取っ手に手をかけた。


 鍵がかかっている。


 足の甲に、冷たいものが触れた。


 浴室の戸の下から、水が流れ出していた。


 細い流れだった。


 廊下の奥へ。


 母の寝室とは反対へ。


 家の外へ逃げようとするように、玄関へ向かっている。


 水は、嫌いなものから逃げる。


 いま。


 浴室から逃げている。


 わたしは戸を叩いた。


「お母さん!」


 返事はない。


 中で、何かが動いた。


 ぺた。


 ぺた。


 濡れた手を、床につく音。


 浴室の天井を這っている。


 そう思った。


「お母さん! 返事して!」


 戸の向こうで、母の声がした。


「ここにいるよ」


 安心しかけた。


 でも、違った。


 声は、浴槽の中からではない。


 天井から聞こえた。


「ここにいるよ」


 母の声で、もう一度言った。


 そのすぐあと。


 もっと低いところから、小さな音がした。


 浴槽の底を、爪で引っかく音だった。


 かり。


 かり。


 かり。


 わたしは体当たりした。


 戸は開かない。


 何度も肩をぶつけた。


 すりガラスが揺れる。


 浴槽の中の音が、だんだん弱くなる。


「お母さん!」


 かり。


「お母さん!」


 ……かり。


「返事して!」


 音が止まった。


 同時に、廊下へ逃げていた水も止まった。


 細い流れが、わたしの足もとで震えた。


 そして。


 向きを変えた。


 玄関へ逃げていた水が、ゆっくり浴室へ戻りはじめた。


 わたしの足の指を濡らしながら。


 戸の下へ。


 暗い隙間へ。


 あれのいる場所へ。


 水が、自分から戻っていく。


 嫌いではなくなったのではない。


 逃げるものが、もう一つもなくなったのだ。


 すりガラスの向こうで、母の形をした影が立ち上がった。


 首が、天井につくほど長かった。


 影が、戸の前まで来た。


 鍵のつまみが、ゆっくり回った。


 わたしは後ずさった。


 けれど、足もとの水は、もう浴室へ向かっていなかった。


 低い側を変えていた。


 水は、わたしの背後へ逃げはじめている。


 戸が、少し開いた。


 古い水槽の匂いがした。


 母の声が、隙間から言った。


「なにかあったら、帰ってきなさいよ」


 隙間から、濡れた指が出てきた。


 一本。


 二本。


 三本。


 四本。


 五本。


 六本。


 わたしはいま、廊下の奥まで下がっている。


 水も、こちらへ逃げてくる。


 でも。


 もう、後ろは壁だ。

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