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9/23

死亡事故と、残された家族

「ガルドさんの班、まだ戻りませんか」


 昼下がりの組合事務所で、俺は窓の外をちらちらと見ながら帳簿に線を引いていた。


「さっき、ギルドの方に『深層寄りで少し手こずってる』って連絡があっただけですね」


 ミーナが、不安そうに指先をいじる。

 机の上には、今日の出入りをまとめた簡易台帳。

 ユウト加入以来、ミーナの字は、前よりずっと読みやすくなっていた。


「ガルドたちはベテランだ。そうそう簡単にはやられないさ」


 リナが言う。

 口調は豪快だが、視線は窓の方に向いたままだ。


(ベテランだからこそ、油断しないタイプではあるけど)


 俺がそう考えていると、外で騒がしい声がした。


「ただいま戻ったぞー! ……おい、どけ、通路を空けろ!」


 ガルドの怒鳴り声だ。


 俺たちは慌てて外に飛び出した。


 ---


 組合事務所の前の通りに、担架が一つ置かれていた。


 血の気を失った若い男が、寝かされている。

 胸から腹にかけて、包帯がぐるぐる巻きだ。


「ガルドさん!」


 ミーナが駆け寄る。


「そいつは平気だ。致命傷は避けた」


 ガルドは、額の汗を手の甲で拭いながら言った。

 鎧には血と泥がこびりついている。


「問題は、もう一人の方だ」


「……もう一人?」


 嫌な予感がした。


「ギルドの治療院に運んだ。まだ、家族には知らせてない」


 リナの表情から、いつもの豪快さが消えていた。


「若い弓手だ。名前は――」


 ガルドが口ごもる。

 俺の脳裏に、一人の顔が浮かんだ。


「……この前、報酬の件で組合に来た、あの三人組の?」

「ああ」


 ガルドは短くうなずく。


「あいつだ」


 胸の中が、嫌な冷たさで満たされる。


 ---


 ギルドの治療院は、支部の裏手にある石造りの建物だ。


 俺たちが駆けつけたとき、中から怒鳴り声が聞こえてきた。


「どうして、どうしてなんですか……!」


 泣き崩れる女の声。


「落ち着いてください。ダンジョンは、常に危険と隣り合わせでして――」


 聞き覚えのある、事務的な男の声。


 俺が扉を開けると、シュテルン・ローゼンが、落ち着き払った顔で立っていた。


 その前で、ひざをついて泣いている中年の女。

 その肩を、青ざめた顔の若い男が支えている。


「お前が、組合の……」


 ガルドの姿を見て、若い男が顔を上げた。

 男の目は、泣き腫らして赤くなっている。


「弟が、弟が……」


 病室のベッドには、白い布がかけられていた。


「あの子、今日も『すぐ帰るから』って、朝、笑って出ていったのに……」


 中年の女――母親だろう――が嗚咽を漏らす。


(この前、組合で見た顔だ)


 報酬の件で相談に来たとき、弓手の青年は「家族にいい顔したくて」と照れくさそうに笑っていた。

 あの笑顔が、もうこの世界から消えている。


「ギルドとしても、痛ましい事態だと考えております」


 シュテルンが、静かな声で言う。


「ただ、ギルド規程上、『ダンジョン内での事故については、一定の危険を承知の上で依頼に臨んだものと見なす』という条項がありまして」

「そんなこと、聞いてません!」


 母親が声を荒げる。


「あの子、字もあまり読めないのに……! そんな細かい規程、どうやって理解しろって言うんですか!」


「依頼掲示の際に、『ダンジョン内は危険となりますので、十分ご注意ください』と説明はしておりまして」


(そういう説明じゃないだろ)


 俺は思わず唇をかみしめた。


「死亡した場合の補償については――」


 シュテルンは、手元の書類をめくる。


「ギルド加入時に任意で加入できる『死亡見舞金制度』がございますが、こちらの方は加入されておりませんでした」

「そんな制度、聞いてません!」


 兄らしき男が叫ぶ。


「俺も冒険者だが、そんな話、一度も……」


「受付での説明不足については、今後の改善点として検討させていただきます」


 また出た、「今後の検討」だ。


「現時点で、ギルドとしてお支払いできるのは……」


 シュテルンは、書類の一行を指で押さえた。


「葬儀の一部費用として、銀貨五枚まで」


「ご、五枚……?」


 母親が、耳を疑ったように繰り返す。


「あの子、うちの生活を支えてくれてたんですよ。父親も病気で働けないのに……!」


 兄が、母親の肩を支えながら、シュテルンを睨みつける。


「借金だって、まだ返しきれてない。装備代も、治療費も……」


(そうだ。前回の報酬だって、本来もらえるべき額より少なかった)


 俺は拳を握った。


「ギルドとしても、個別のご事情には心を痛めております」


 シュテルンは、表情一つ変えずに続ける。


「ただ、制度上、全ての死亡事故に対して十分な補償を行うことは難しく――」


「制度って、誰のための制度なんですか」


 気づけば、俺は口を開いていた。


 シュテルンの視線が、こちらに向く。


「ユウト」

「お久しぶりです、補佐官殿」


 俺は、できるだけ冷静な声を出した。


「制度があると言っても、加入方法も説明されず、文字が読めない人間には実質たどり着けないなら、それは『ある』とは言えない」


 シュテルンは、ほんのわずかに目を細める。


「厳しいご指摘ですね」

「前の職場でも、似たような約款を山ほど見てきましたので」


 退職金の減額条項。

 事故時の免責条項。

(念のため言っておくと、退職金そのものには法的な支払い義務はないから、最初から制度がなければ会社は一銭も払わずに済む。一方、事故の免責条項については、会社には安全配慮義務があるので、本来そんなものを書いても無効だ)

 フリーランス向けの「見舞金制度」と称した、実態のない紙切れ。


「……ですが」


 俺は言葉をのみ込んだ。


 この場で、ギルドを全面的に糾弾したところで、目の前の家族にとって「今」必要なお金が増えるわけではない。


「ギルドとしては、規程に基づき最大限の対応を――」


 シュテルンが言いかけたとき。


「もういいです」


 母親が、かすれた声で言った。


「あなたたちの言っていること、私にはよく分かりません。ただ……」


 涙で濡れた目が、俺たちの方を向く。


「あの子の分まで、残された家族が路頭に迷わないようにしてほしいだけなんです」


 その視線に、胸が詰まった。


「……せめて、葬儀の費用ぐらいは、こちらからも何とかします」


 気づけば、そう口にしていた。


「組合として、できる範囲で」


 リナが、横で小さくうなずく。

 ガルドも、黙って拳を握っていた。


 シュテルンは、しばらく黙って俺たちを見ていた。

 やがて、小さく肩をすくめる。


「では、ギルドからの五枚に加え、組合からの支援分を加えた形で、改めてお渡ししましょう」


 それで、全てが救われるわけではない。

 それでも、今の俺たちにできることは、その程度しかなかった。


 ---


 夕方。


 組合事務所の机の上に、帳簿と小さな袋が置かれていた。


「これで、本当に大丈夫なんでしょうか」


 ミーナが、不安そうに袋を見つめる。

 中には、組合の金庫から捻り出した銀貨がいくつか。


「正直、大丈夫じゃない」


 俺は正直に答えた。


「このまま似たような事故が続いたら、組合の金庫はあっという間に空になる」

「でも、放っておくわけにもいかない」


 リナが椅子に腰をかけ、腕を組む。


「ギルドがまともな補償をしないなら、誰かがやるしかない」

「その『誰か』が、いまのところ、私たちしかいない」


 ガルドが、帳簿を覗き込む。

 額に深い皺が刻まれていた。


「でも、このやり方じゃ、いずれ破綻する」


 俺は帳簿を指でたたいた。


「その場しのぎで金を出し続けても、長くはもたない」


 前の世界でも、似たような話を聞いたことがある。

 事故のたびに寄付金を募り、そのたびに「次もまた」が続いて、みんなが疲弊していくケース。


「じゃあ、どうすりゃいい」


 リナが、俺を見る。


「仕組みを作るしかない」


 自然と言葉が出た。


「最初から『誰かが死んだり、大怪我をしたりする』ことを前提にした仕組み。あらかじめ、みんなで少しずつ金を出し合って、いざというときにそこから支払うような」

「……保険、みたいな?」


 ミーナが首をかしげる。


「そうだな。前にいた国だと『共済』とか『掛け捨て保険』とか、いろいろ呼び方はあったけど」


 俺は、ペンを取り上げ、紙の上に簡単な図を書いた。


「一人ひとりの冒険者が、依頼を受けるたびに、少しずつ会費とは別に『掛け金』を払う。その金を一つの箱にまとめる」


 箱の絵を描き、矢印を集める。


「そして、誰かが死んだり、手足を失ったりしたときに、その箱から一定額を支払う」


 今度は、箱から外へ矢印を伸ばす。


「ギルドがやらないなら、組合でやる」


 リナが、図を覗き込む。


「そんな仕組み、本当に回るのか?」

「きちんと条件を決めれば、回せるはずです」


 俺は頷いた。


「全員に無制限に払うんじゃなくて、掛け金と給付額のバランスを決める。誰が、どんな事故のときに、いくら支払うか。記録もちゃんと残して」


 ミーナが、目を丸くする。


「それって……私でも手伝えますか?」

「もちろんだ」


 俺は笑った。


「むしろ、ミーナみたいに顔と名前を覚えるのが得意な人間が、誰がどんな家族を抱えているかを把握しておくのは、大事な仕事になる」


 ガルドも、腕を組み直す。


「掛け金を払うのを嫌がるやつもいるだろうな」

「いるでしょうね」


 俺は正直に認めた。


「『どうせ自分は死なない』って思ってる若いやつほど、そう言う。でも、今日みたいなことがあった後なら、耳を傾けてくれる人間も増えるはずです」


 沈黙が落ちた。


「リナ」


 俺は組合長を見る。


「やる価値は、あると思いますか」


 リナは、少しだけ目を閉じた。

 そして、ゆっくりと開く。


「あるよ」


 迷いのない声だった。


「あたしらが守りたいのは、冒険者の『今』だけじゃない。死んじまった後に、残された奴らが路頭に迷わないようにすることまで含めて、『守る』だ」


 机を、拳で軽く叩く。


「だから、その仕組みとやら、作ってみよう」


 胸の奥で、何かが静かに燃え上がる。


「分かりました」


 俺は、真新しい紙束を机の上に置いた。


「じゃあ、明日から――いや、今日からか」


 ペンを握り直す。


「『冒険者共済』の初稿、作りましょうか」


 窓の外では、カルナの街に夜の気配が降り始めていた。


 死亡事故は、悲劇だ。

 条文のどこを探しても、完全な救いは見つからない。


 だからこそ。


(ないなら、作るしかない)


 二度目の人生で、ようやくそこまで踏み込む覚悟が、自分の中に芽生えつつあるのを、俺ははっきりと自覚していた。


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