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元ギルド事務員、街をさまよう

 朝、目を覚ましたとき、最初に浮かんだのは一つの言葉だった。


(遅刻だ)


 反射的に上半身を起こし、枕元の木製の時計に手を伸ばす。

 短い針は八を指していて、長い針はその少し手前だ。


「……あ」


 そこでようやく、昨日の出来事が頭の中でつながった。


 俺は、もうギルドの事務員ではない。

 今日、受付カウンターに立つ必要も。

 支部長の顔色をうかがいながら、書類の山に埋もれる必要も。


「今日から無職か」


 口に出してみると、予想していたより、ずっと軽い響きだった。


 小さな借間の窓から、カルナの朝陽が差し込んでいる。

 石畳の通りを走る荷馬車の音と、遠くから聞こえる露店の掛け声。

 いつもの街の朝だ。


 いつも通りに世界が回っているのに、俺だけ別のレールに乗せられたような感覚がある。


(……とりあえず、飯を食わないとな)


 考え事は、腹が満ちてからにしよう。


 ---


 朝食を済ませ、安宿の部屋を出る。

 財布の中身を確認すると、退職前にこっそり貯めておいた小さな蓄えがあるだけだ。

 当面の生活は、これでどうにかするしかない。


 カルナの街は、今日も相変わらず冒険者だらけだった。


 ダンジョン入口の塔へ続く大通りには、武具屋、魔道具店、治療院、情報屋。

 どれも「冒険者が金を落としてくれないと商売にならない」店ばかりだ。


「今日は深層か?」

「いや、装備のローンがまだ残っててな」


 通りすがりの前衛が愚痴るのが、否応なく耳に入ってくる。

 ギルドで見慣れた光景が、そのまま街の裏側に続いている。


(結局この街は、冒険者が稼いで、ギルドが抜いて、残りでみんなが何とか食ってる、って構図なんだよな)


 前世の会社で見た「下請け地獄」を、少しだけ思い出す。

 トップが決めた取り分を守るために、現場が削られていく構図は、世界が変わってもあまり変わらないらしい。


「お、兄ちゃんじゃねえか」


 声をかけられて振り向くと、大柄な戦士が片手を振っていた。

 革鎧に、やたら刃こぼれの多い大剣。

 ギルド窓口で何度も見た顔だ。


「……おはようございます。今日は早いですね」

「早くねえよ。深夜まで潜って、さっき上がってきたとこだ」


 苦笑しながら、戦士は肩をすくめる。

 その後ろには、同じパーティーらしい弓手と魔法使いもついてきていた。


「兄ちゃん、ギルドに向かわねえのか?」

「ああ、俺、昨日で辞めたんですよ」


 言ってみて、改めて実感が湧いた。

 戦士は一瞬きょとんとした顔になり、それから眉をひそめる。


「マジか。……あのクソ支部長、何やらかした?」

「まあ、いろいろと」


 いちいち説明すると長くなるので、そこはぼかしておく。


 弓手の女が、心底残念そうにため息をついた。


「あーあ。あんたが受付にいるときは、説明ちゃんとしてくれたのに」

「そうそう。報酬の内訳とか、損しないルートとかさ」

「他の窓口だと、『規程です』で終わりなんだよな」


 口々に言われ、少し戸惑う。

 俺は自分のやってきたことを、「せめてもの良心」くらいにしか思っていなかった。

 それでも、誰かの記憶には残っていたらしい。


「助かってたぞ?」


 大柄な戦士が、不器用に頭をかく。


「事故の報告書んときも、兄ちゃんが書き方教えてくれなかったら、危険手当ゼロで終わってたかもしれねえし」

「ああ……そんなこともありましたね」


 怪我をした若手前衛のために、規程の『例外条項』を引っ張り出してきて、どうにか危険手当を出させたことがあった。

 あのとき、支部長にねちねち嫌味を言われたのも、今となってはいい思い出……ではないが、まあ、過ぎたことだ。


「で、これからどうすんだ?」


 魔法使いの青年が、興味ありげに首をかしげる。


「どっか別の街のギルドに移るのか?」

「それとも、冒険者やる?」

「いや、それはないです」


 即答すると、三人とも笑った。


「ですよねー。兄ちゃん、剣よりペン持ってる方が似合うしな」

「どっかで事務やるにしても、カルナじゃギルドぐらいしかないぞ?」

「まあ、他の街も似たようなもんだろうけどな」


 そこなんだよな、と内心でうなずく。


 前世でもそうだった。

 似た業界に行けば、同じような働き方が待っている。

 環境を変えたつもりで、結局は同じ構造の中をぐるぐる回るだけになる。


(今度こそ、同じ輪の中をぐるぐる回るのはやめたい)


 そう思う一方で、現実的な選択肢はそう多くない。

 この世界で、俺のスキルが一番活きるのは、どう考えても「帳簿と契約の世界」だ。


「ま、何かあったら相談しろよ」


 戦士が、ぶっきらぼうに手を振る。


「兄ちゃんが窓口辞めたって聞いて、ギルドで暴れだすやつもいそうだしな」

「暴れないでください」


 苦笑しながら頭を下げる。


 分かれ際、弓手の女がふと思い出したように言った。


「そうだ。ギルドの前、今すげえ列できてたよ。窓口、てんやわんやって感じ」

「……そりゃ、まあ」


 想像してみる。

 書類をさばける事務員が一人減ったギルドの窓口。

 支部長の怒鳴り声。

 慌てふためく新人たち。


 同情する気持ちはある。

 あるが、それとこれとは話が別だ。


「俺の責任じゃないですよ」

「分かってるって」


 そう言い残して、三人は賑やかに笑いながらダンジョンの方へ去っていった。


 背中を見送りながら、胸の内側が少しだけ温かくなる。


(……意外と、ちゃんと見てくれてたんだな)


 前世では、死ぬ間際まで、自分の仕事が誰かの役に立っている実感を持てなかった。

 今世では、少なくとも数人が、俺の名前と仕事を覚えていてくれた。


 それだけでも、「前よりマシ」の約束は果たされつつあるのかもしれない。


 ---


 昼が近づくにつれ、街はさらに騒がしくなっていった。


 ダンジョンから戻ってきたパーティーが、戦利品を背負って市場を通り抜ける。

 商人たちは、素材の相場とにらめっこしながら、少しでも安く買い叩こうと声を張り上げる。


「魔石なら今、高く買うぞー!」

「血の付いた装備も修繕大歓迎!」


 どの声にも、どこかで聞いたことのあるような数字のトリックが隠れている。

「今だけ特別」「まとめて買えばお得」――前世のチラシと大差ない。


(仕組みさえ分かってれば、まだマシなんだがな)


 ふと、自分の足がギルドとは逆方向へ向かっていることに気づく。

 中央広場から少し外れた、細い路地。

 そこには、冒険者相手というよりも、街の住人向けの小さな店や、安酒場が並んでいる。


「……昼間から酒って気分でもないしな」


 そう言いつつも、足は自然と一軒の酒場の前で止まった。


 木の看板には、薄く「ブライト亭」と書かれている。

 どこかで聞いたような名前だ、と思ったが、すぐに思い出せない。


 扉の向こうから、賑やかな笑い声と、怒鳴り声が混ざったような喧噪が漏れてくる。


「ギルドのやつら、また仲介料上げやがったんだとよ」

「ふざけんなよ、あいつら自分で魔物倒してねえくせに」


 そんな声に、耳が勝手に反応する。

 職業病みたいなものだ。


(……情報を集めるだけなら、いいか)


 そう自分に言い訳しながら、俺は酒場の扉に手をかけた。


 中から飛び出してくるであろう、怒りと愚痴と、そして――後に俺の運命を変える誰かの声を、まだ知らないまま。


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