深層調査、想定外の事態
「もう一度、確認します」
ダンジョン入口前の臨時ベースキャンプで、俺は紙束を手に立っていた。
巨大な石造りの門。
その手前に建てられた簡易テント群。
武器の音と、鎧のきしむ音と、冒険者たちのざわめき。
「本隊の編成は三パーティー。先行偵察が二パーティー。予備隊が一つ」
俺の言葉に合わせて、ガルドがうなずく。
「先行偵察が異常を見つけたら、まず一度戻って報告。深追い禁止」
「撤退条件は『隊の半数以上が戦闘不能』か、『予定時間の倍を超過』」
ミーナが、横で小さな声で読み上げる。
「危険度が変わったと報告を受けたら、ギルドと組合が一緒に説明して、『続行か撤退か』を選ぶ時間をとる」
これは、契約に書き込んだ条文そのものだ。
リナが、俺の肩を軽く叩いた。
「ユウトは入口のベースに残って、紙と数字の見張り役」
「俺が前線に出ても足手まといですから」
俺は苦笑する。
「ガルドが現場の指揮。リナが予備隊。組合の戦力は、基本的に前には出さない」
「分かってる」
ガルドが短く答えた。
リナも頷く。
「ギルド側は?」
視線を向けると、少し離れたところでバロスが怒鳴っていた。
「いいか、これは王都からの指名依頼だ! カルナ支部の名誉がかかっている!」
冒険者たちに檄を飛ばしながら、彼は鎧の胸当てを誇らしげに叩く。
その横で、シュテルンが淡々と書類の確認をしていた。
「支部長。撤退条件と報告ルートについて、あらためて――」
「そんなものは現場で決める」
バロスは、シュテルンの言葉を遮った。
「契約だの条文だの、あんまり冒険者を縛ると、士気が落ちるだけだ」
(だったら、何のためにここまで準備したと思ってるんだ)
喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
「ユウト殿」
シュテルンがこちらに歩いてきた。
「支部長はああ言っていますが、契約の条文については、私の方からも各隊長に説明しておきました」
「助かります」
それだけは、本当にありがたい。
「もっとも」
シュテルンは、小さく笑った。
「現場でどこまで守られるかは、また別の話ですが」
「そこを何とかするために、紙を書いたんですけどね」
俺も苦笑で返すしかない。
---
深層調査は、最初の数日は順調だった。
先行偵察が道を確保し、本隊がゆっくりと進む。
ベースキャンプには、定期的に偵察からの報告が届いた。
「第三階層までの魔物分布、ほぼ事前情報どおりです」
伝令が息を整えながら報告する。
「新しい罠や結界破損は?」
「目立ったものはありません」
ミーナが、報告を紙に写していく。
「予定より少し早いくらいですね」
俺は時刻表を確認した。
(このまま行けば、『相当の期間内』というやつも守れそうだ)
そんな甘い考えを抱いたのは、三日目の朝までだった。
---
「結界が……?」
四日目の昼前。
戻ってきた偵察隊の一人が、顔面蒼白で駆け込んできた。
「第六階層の結界の一部が、妙に薄くなってて」
「薄く?」
俺は、ダンジョンの簡易地図を広げた。
「王都から聞いていたのは、『一部の結界石の魔力が弱っている』って話だけでしたが」
「歩いてるだけで、変なざらついた感じがするんですよ」
偵察の魔法使いが、腕をさすりながら言う。
「魔物の気配も、いつもと違う。散ってる感じじゃなくて、どこかに集まってるような」
(嫌なパターンだ)
前の世界で読んだ危機管理の本が、頭の片隅で警鐘を鳴らす。
「いつもと違う」「はっきり言えない違和感」が出てきたときは、一度立ち止まるべきだ。
「支部長には報告しましたか」
「はい。でも、『予定どおり進め』って」
予想していた答えが返ってきた。
「『王都の連中が大袈裟なだけだ』って」
リナが舌打ちする。
「あの鈍感」
「契約上は、『危険度の変化があった場合、説明と検討の時間を取る』ってなってるはずですが」
俺は、契約書の該当部分をめくった。
「シュテルンにも話を通しましょう」
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「危険度の変化、ね」
第六階層手前の臨時拠点。
シュテルンは、偵察隊の報告を一通り聞くと、静かに言った。
「『感覚的な違和感』だけで、調査全体を止めるのは難しい」
「止めろとは言っていません」
俺は、契約書を指で示した。
「『説明して、考える時間を取る』だけでいい」
「その『時間』の間に、魔物が溜まり続けたらどうします」
シュテルンの反論は、理屈としては理解できる。
「ただし」
彼は、少しだけ目を細めた。
「契約の条文に従って、一度『危険度の再評価』を行うことはできます」
「それで十分です」
俺は頷いた。
バロスは、相変わらず不満そうだった。
「そんな面倒をしている暇があったら、さっさと進めた方が早いだろうが」
「その一言が、後で高くつかないといいんですが」
思わず出た本音に、シュテルンが苦笑した。
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再評価の結果は、半端だった。
「結界の魔力は確かに落ちていますが、今すぐ崩壊するほどではありません」
ギルド側の結界術師が、そう報告した。
「魔物の数も、今のところ『やや多い』程度です」
「なら、予定どおり進める」
バロスが言い切る。
「『危険度が上がった』って紙に書いてしまうと、王都が余計にうるさくなる」
「事故が増えている支部」と見なされれば、予算も権限も削られる。
バロスにとっては、目の前の血より、そっちの方がよほど怖いのだろう。
(紙に書くことの重さを理解しているのは、ある意味で偉いが)
方向性が逆だ。
「せめて、撤退条件を柔らかくしておきましょう」
俺は、ガルドに耳打ちした。
「半数戦闘不能の前に、一時撤退のラインをもう一つ」
「四分の一が動けなくなったら、一回戻る、か」
ガルドが短く頷く。
「現場の判断としてなら、こっちで決めちまっていいだろ」
契約に書かれているのは最低限のラインだ。
それより「厳しく」守る分には、誰も文句は言えない。
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それでも、想定外はやってきた。
第六階層に入ってから、ほんの二時間後。
「結界が破れた!」
ベースキャンプに駆け込んできた伝令の声は、裏返っていた。
「魔物の群れが、まとめて流れ込んでます!」
ガルドたち本隊は、六階層の中央付近。
先行偵察は、さらに少し先だ。
「バロス支部長は?」
「先頭にいて――撤退を命じてません!」
声が震えている。
「『押し返せばいい』って」
予想できた台詞だった。
「負傷者の数は」
「もう十人以上が重傷です!」
俺は、ベースキャンプの簡易地図を見た。
第六階層は、広い。
一本道ではなく、いくつもの通路が入り組んでいる。
「撤退ルートは確保できているはずだな」
「一応」
ガルドが短く答えた。
彼はすでに鎧を着込み、武器を手にしている。
「このまま支部長の指示を待っていたら、間に合わねえ」
リナが低く言った。
「『提案』の出番だ」
俺は、契約書の一枚を握りしめた。
---
第六階層手前の拠点は、すでにざわついていた。
負傷者が次々と運び込まれる。
治療師たちが叫び、血の匂いが漂う。
その中心で、バロスが怒鳴っていた。
「何を騒いでいる! あれくらいの群れ、押し返せば――」
「支部長」
俺は、声を張った。
「契約第〇条。緊急時の指揮条項に基づき、提案があります」
バロスが、眉をひそめる。
「今、それどころでは――」
「だからこそ、です」
俺は、紙を掲げた。
シュテルンが、素早くこちらに近づく。
「どの条文ですか」
俺は、指で一行を指し示した。
『重大な危険が発生し、支部長が判断不能または不在の場合、市長またはカルナ支部が指名した者が、一時的に撤退等の緊急判断を行うことができる』
「『判断不能』ではない」
バロスが吐き捨てる。
「俺はここにいて、命令も――」
「支部長」
シュテルンが、静かに遮った。
「失礼ながら、いま撤退の判断をしなかった場合、その責任を王都にどう説明するおつもりですか」
バロスが、言葉に詰まる。
「報告書には、『結界の異常を事前に把握していたが、特に対策を取らず前進を続けた』と書かれるでしょう」
シュテルンの声は淡々としていた。
「そのうえで、『緊急時の指揮条項を用意しておきながら、使わなかった』という事実も」
(そこまで言うか)
俺は内心で驚いた。
バロスの顔色が変わる。
「……誰を指名する」
絞り出すような声だった。
「市長はここにはいない。カルナ支部としては」
シュテルンは、一呼吸置いてから言った。
「ガルド・ストーンを、緊急時の撤退判断者として指名します」
ガルドが目を見開く。
「おい、俺か」
「現場の地形と戦力を一番よく知っているのは、あなたです」
シュテルンは、まっすぐにガルドを見た。
「それに――」
ほんの少しだけ、口元をゆがめる。
「ユウト殿の『緊急プラン』に従って動ける人物でもある」
リナが、ガルドの背中をどんと叩いた。
「決まりだな」
ガルドは、深く息を吸い込んだ。
「……分かった。やる」
俺は、契約書の余白に、素早く一文を書き足した。
『本日第六階層の事案について、カルナ支部はガルド・ストーンを緊急判断者として指名した』
その下に、ギルド印と組合印を並べる。
シュテルンがギルドの印を押し、リナが組合の印を押した。
紙の上で、条文が現実に噛み合う音がした気がした。
---
「ガルド」
俺は、彼の肩を掴んだ。
「入口までのルートは、こっちで見てる。怪我人の搬送ポイントも、昨日のうちに決めておいた」
「ああ」
ガルドの目は、いつものように静かだった。
「撤退の合図は?」
「例の笛だ」
リナが腰の笛を叩く。
「あたしは予備隊を連れて、階層の手前で待機。ガルドの指示で、挟まれた隊を引き上げる」
ミーナが、震える手で紙を握りしめていた。
「搬送用の担架と治療師の位置は……ここ、とここです」
地図に印をつけながら、彼女は小さな声で言う。
「途中で行き違いにならないように、矢印も」
矢印だらけの地図を見て、ガルドが苦笑した。
「迷いようがねえ」
その顔には、不思議な落ち着きがあった。
「行ってくる」
ガルドが言う。
「紙で用意した『逃げ道』、ちゃんと使わせてもらうぞ」
「頼みます」
俺はそう返した。
深層調査本番。
想定外の事態は、すでに始まっている。
あとは、事前に仕込んだ条文と計画が、どこまで現場で機能するかにかかっていた。
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