ギルド事務員、辞めさせていただきます
「……辞めさせていただきます」
自分の口から出た言葉を、最初に聞いたのは俺自身だった。
目の前には、分厚い木の机。
奥の革張りの椅子には、太鼓腹の男がふんぞり返っている。
頭の上にはぎらぎら光るシャンデリア、壁にはダンジョン地図と報告書がびっしりと貼られていた。
ここは、ダンジョン都市カルナにある「中央冒険者ギルド・カルナ支部」の支部長室だ。
「……は?」
机越しに、支部長――バロス・ヘルマンが、豚みたいな目をさらに丸くする。
「今、何と言った?」
「ですから、辞めさせていただきます、と」
俺は、できるだけ丁寧に、もう一度繰り返した。
名前は今世のものに変わったが、内側にあるのは前世の記憶を抱えたままの俺だ。
――そして、ここもまた見事にブラックだった。
「ふざけるなよ、ユウト」
バロス支部長が、机をドンと叩く。
机の上に積まれていた分厚い依頼書の束が揺れ、数枚が床に落ちた。
「お前、この一年でどれだけ育ててもらったと思ってる? 依頼の受付、報酬計算、事故報告の処理、全部教えてやったんだぞ」
「はい。おかげさまで、すっかりブラックなやり方に詳しくなりました」
つい本音が漏れてしまい、慌てて言葉を飲み込む。
バロスは気づかなかったのか、あるいは気づいていて無視したのか、いっそう声を荒げた。
「冒険者どもはな、黙ってたらいくらでも搾れるんだ。報酬の内訳なんて細かく説明したら不満が出るに決まってる。だから『ギルド規程に基づき』って言っときゃいいんだよ」
「……そういう説明を、毎日窓口で浴びてきた身としては、胸が痛みますね」
冒険者たちは、受付カウンター越しに何度も俺に愚痴をこぼした。
「危険手当がついてない」「約束の額より少ない」「怪我して治療費まで引かれた」――。
前世で、契約書の細かい条文に救われた人間としては、見て見ぬふりができない話ばかりだった。
(普段から規程なんて無視しているくせに、こういう連中ほど条文を読んでいない。自分に都合のいいときだけ「規程に基づき」と連呼して、肝心なところでミスをする)
(前の職場も、就業規則だけはやたら厳しく守らせるくせに、労働基準法の落とし穴には何度も落ちていた。世界が変わっても、強い側の発想は大して変わらないらしい)
「ギルド規程第十七条」
俺は、手元の紙を一枚持ち上げる。
「『事務職員は、一か月前までに届け出ることで、ギルドの許可なく退職することができる』。ここにそう書かれています」
「は? そんな条文あったか?」
「ありましたよ。文字が小さすぎて、支部長の目には入らなかっただけです」
内心のツッコミを押し殺しながら、淡々と続ける。
「退職届は一か月前に提出済みです。受理印もいただいています」
バロスの視線が、机の端に置かれた書類に落ちる。
そこには、俺の名前と印が押された退職届が、確かに挟まれていた。
「……誰が受理した」
「補佐官殿です。『規程上は問題ありませんね』と」
カルナ支部の筆頭補佐官――落ち着いた口調の裏で、えげつない条文を考えるあの男の顔が、脳裏に浮かぶ。
(あいつはあいつで、別の意味でブラックなんだよな)
「だがなぁ、ユウト。お前がいなくなったら、窓口が回らなくなるだろうが」
「そうですね」
そこは否定しない。
「本部が決めた人員枠と予算の中でやりくりしてるんだ。そう簡単に人は増やせん」
バロスは、ぶつぶつと続ける。
「上は『処理件数』と『黒字額』しか見ちゃいない。依頼をさばいて金を本部に上納できてりゃ、それで良しだ。現場が多少悲鳴を上げてもな」
(だからって、現場に全部押しつけていい理由にはならないんだが)
だからこそ、このタイミングで辞めるべきだと判断したのだ。
「ただ、それは俺の責任ではありません。人を増やさず、無理な仕事量を押しつけ続けた結果です」
「何だと」
バロスの顔が、ゆでだこのように赤くなる。
「お前みたいな小物がいなくても、このギルドは回るんだよ。代わりはいくらでも――」
「――いないじゃないですか」
言葉を遮るように、俺は静かに言った。
「少なくとも、この一年で、俺以外に事務員が一人も定着しなかったのが、その証拠です」
前世と同じ台詞だ。
「代わりはいくらでもいる」。
その言葉に縛られて、俺は心身をすり減らし続けてきた。
(二度目の人生まで、それをやるつもりはない)
胸の奥で、何かが静かに固まっていく。
「前の……」
思わず、口に出しかけて、喉の奥で飲み込む。
ここでは、前世の話をしても通じない。
代わりに、今世の言葉で言い直す。
「俺は、ここでこれ以上、自分の時間と命をすり減らしたくありません」
バロスは、しばらく俺を睨みつけていたが、やがて大きく舌打ちした。
「勝手にしろ。どうせお前なんか、どこに行っても同じだ」
「それは、試してみないと分かりませんから」
俺は一礼し、支部長室を後にする。
扉を閉めた瞬間、背中にのしかかっていた何かが、ふっと軽くなった気がした。
廊下に出ると、窓から差し込む夕陽が、石造りの壁を赤く染めている。
受付の方からは、今日も冒険者たちの怒号と笑い声が聞こえてきた。
「おーい、ユウト。今の、支部長の怒鳴り声か?」
同僚の受付嬢が、不安そうにこちらをのぞき込む。
彼女の手には、未処理の依頼票が束になっていた。
「……悪い。たぶん、しばらくしたらもっと忙しくなる」
「え?」
「俺、今日で辞めるから」
ぽかんと口をあける彼女に、苦笑いを返す。
心のどこかで、「また同じことになったらどうしよう」という不安もある。
それでも――。
(二度目の人生、最初の一歩だけは前よりマシだ)
前世では、一歩目すら踏み出せなかった。
今度は、少なくとも「辞める」と言えた。
ギルドの重い扉を押し開けると、カルナの街の夕風が吹き込んできた。
石畳の通りには、冒険者や商人たちが行き交い、遠くにはダンジョンの入口を示す塔が見える。
「さて――」
俺は、空を見上げて小さく息を吐いた。
「二度目の人生、ここからどうやって食っていくか」
答えのない問いを胸の中で転がしていると、ギルドの階段の下あたりから、怒鳴り声が聞こえてきた。
「ふざけんなよ、『安全対策費』だの『臨時警備協力費』だの、またごっそり引かれた」
「掲示板には『銀貨三十』って書いてあったんだぞ」
「窓口で文句言ったら、『規程に書いてあります』の一言だ」
数人の冒険者が、しわくちゃになった明細書を握りしめている。
(……どこかで見た光景だな)
(強い側が、「細かい字」と「規程」を盾にして、弱い側から黙って取っていく)
「じゃあ、どうしろってんだよ。字だってろくに読めねえのに」
「『嫌なら依頼受けるな』って顔してたよな、あの受付」
刺さるような言葉に、思わず足が止まる。
そのとき、横合いから、少し低めの女の声が割り込んだ。
「ギルドに文句言っても、あそこは『そういう場所』だよ」
振り向くと、栗色の髪をひとつに結んだ女が、腰に手を当てて冒険者たちを見ていた。
年齢は俺と同じくらいか、少し上だろうか。
「だったらどうすりゃいいんだ、姐さん」
「簡単だろ」
女は、あっけらかんと言う。
「ギルドじゃ守れないなら、別の窓口を作るだけだ」
冒険者たちが、ぽかんと口をあける。
「そんなもん、本当に作れるのかよ」
「作るかどうかは、あんたら次第さ」
女は肩をすくめて笑った。
「……ま、そのうち看板が出るかもしれない。文句があるなら、そのときはそっちに来な」
そう言い残し、彼女は路地の方へと歩き去っていく。
(別の窓口)
さっき聞こえた「相談所」という言葉と、今の一言が頭の中で重なる。
前の人生と同じ場所で立ち尽くしてはいない。
この街には、ギルド以外の窓口を作ろうとしている誰かがいる。
その事実だけが、漠然とした不安と同じくらい、胸の奥を少しだけ軽くしてくれた。
(……なら、俺もそこへ行く)
(ギルドじゃない窓口を、見つける。――なければ、作る)
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