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政略で結ばれた夫婦が、秘密を受け入れた日

作者: 雨日
掲載日:2025/10/03


政略で結ばれた夫婦が、互いの心を開き、秘密をも受け入れ、やがて本当の夫婦となっていく物語。


◇


「シリ様! お待ちください!」

城内のホールに、私の声が響き渡った。


はるか前方を、金色の髪をなびかせて疾走する妃がいる。


私がお仕えする妃、シリ様だ。


長いドレスの裾を踏んで転びそうになり――瞬間、ヒヤリとしたが、

彼女は見事に体勢を立て直し、そのまま裾を手に持って走り出した。


「シリ様! おやめください!! そのような淫らな格好は・・・!」


この時代、足を見せるのは裸をさらすに等しい。


私が金切り声を上げても、彼女は耳を貸さない。


勢いよく城門を開け放ち、裾を捲り上げたまま、

帰還してきた夫――領主グユウ様のもとへ猛烈な勢いで駆け寄っていった。


「お帰りなさい!」

弾んだ声が響く。


私は必死に息を整えながら、扉にもたれ、それを見届けた。


隣にいた家来が心配そうに問いかける。


「エマ・・・大丈夫ですか?」


「・・・大丈夫・・・では・・・ありません」

荒い呼吸の合間に答える。


私はエマ。


ワスト領の妃、シリ様の乳母である。


この夫婦は、わずか二ヶ月半前に結婚された。


――とはいえ、互いを想いあって結ばれたわけではない。


領土のため、愛も情もない、典型的な政略結婚だった。


妃シリ様は気が強く、思ったことを率直に口にされる。


一方の旦那様、グユウ様は、寡黙すぎて無表情すぎるお方。


結婚当初、シリ様は何度も癇癪を起こしては、全力で夫にぶつかっていた。


周囲の目には「理想の妃」とは程遠い姿に映ったかもしれない。


けれど――傍で見つめていた私には分かるのだ。


あの激しさこそが、無口なグユウ様の心を動かしたのだと。


今、二人の間には確かに静かな愛情が芽生えている。


相変わらず言葉少ないグユウ様だが、シリ様を見つめる黒い瞳には、かすかな揺らぎが宿る。


声色も柔らかい。


そしてシリ様も。


私の知らない、深い眼差しとやわらかな表情で、グユウ様を見つめている。


乳母として長く仕えてきたが、あのような瞳のシリ様を見たのは初めてだった。


夕暮れの湖畔で、黙って並んでいるだけの二人。


その背中を見守りながら、私は思う。


――言葉以上の絆とは、このことだ。


◇


一見すれば、幸せそうな新婚夫婦。


けれど、私の胸には深い影が落ちている。


――シリ様は妊娠しているかもしれない。


最終の月のものは、嫁ぐ前にあったきり。


今は旦那様の前では元気そうに振る舞っておられるけれど、食欲は落ち、やたらと眠っている。


新婚早々の懐妊。

世間一般ならば祝福の出来事だろう。


けれど私は知っている。


シリ様は嫁ぐ二日前、領主である実の兄――ゼンシ様に無理やり奪われたのだ。


翌朝、呆然と座り込むシリ様の傍らに、私はただ無言で寄り添うことしかできなかった。


何もできなかったのだ。


もしお腹に子がいるのなら――父親は誰なのか。


夫であるグユウ様か、それとも・・・兄ゼンシ様の子か。


今はまだ、誰にも分からない。


「シリ様、もしかして・・・」

問いかけると、怯えた瞳が全てを物語っていた。


ーーこれは私の推測に過ぎない。


若い女性なら、疲れや心労で月のものが遅れることもある。


どうか、そうであってほしいと願いながら、私は医師を呼ぶことにした。


◇


「おめでとうございます。ご懐妊されていますよ」

医師の声に、部屋の空気が凍りついた。


青ざめたシリ様の横で、私は「しばらくは公にしないで」と頼み、賃金を握らせる。


医師が去ると、重苦しい沈黙だけが残った。


――もし実兄との過去をグユウ様が知ったら。


胸が締めつけられる。


絶対に、この秘密は口にできない。


シリ様は寝台に腰をかけたまま、肩を小刻みに震わせていた。


「シリ様・・・」

私はそっと声をかける。


「グユウ様には、妊娠したと告げればよいのです」

静かな声で告げた言葉が、重苦しい空気を切り裂いた。


驚いたように私を見つめるシリ様。


けれど私は表情を崩さず、淡々と続けた。


「たとえ恐れていることが真実だったとしても・・・子は必ずシリ様に似るはず。何の心配もありません」


「・・・エマ、気づいていたの? あの夜のことを・・・」

その声は震え、青い瞳に涙が溢れる。


私は小さく頷いた。


すがるように手を伸ばしてきたシリ様を、強く抱きしめる。


そして心の中で誓った。


――この秘密を守り抜く、と。


「もしお腹の子が・・・あの人の子であっても、容姿はシリ様に似るはず。

母親似の子として皆が納得します」


シリ様とゼンシ様、兄妹だけあって、その容姿はそっくりだった。


シリ様は手を固く握りしめる。


「・・・グユウさんは私に嘘をつかないと約束してくれた。私も正直に話さなくては」


「いけません、シリ様!」

思わず声が震えた。


私は彼女の手を握り締め、その瞳を覗き込む。


「お子様は・・・グユウ様の子かもしれないのです。

たとえ真実が別であったとしても、口にしてはならないことがあります。

グユウ様と長く過ごされたいと望むのならなおさらです」


シリ様は目を閉じ、長く息を吐いた。


「・・・わかったわ。グユウさんには、妊娠したことだけを伝える」


その声には、決意と哀しみとが入り交じっていた。


◇


タイミングの悪いことに、この日はゼンシ様がレーク城を訪れる日だった。


まだ夜明けも浅いというのに、城内はすでに慌ただしく動いている。


廊下を行き交う侍女や家臣の顔には、緊張と不安の色が濃い。



シリ様もまた、揺れる心を押し隠しながら身支度を整えられていた。


けれど私には分かる。


その胸の奥にあるのは、恐怖と、決して口にしてはならない秘密――。


この日は暑く、白く薄いローンのドレスを選んだ。


裾には淡い紫色の刺繍がほどこされ、涼やかな印象を添える。


黄金色の髪は高く結い上げ、そこに淡い光を放つピンクの飾り櫛を挿した。


グユウ様から頂いたものだと聞いている。


その瞬間、あまりに美しくて、私は思わず息を呑んだ。


「遅くなりました」

長いドレスの裾をひきずりながら食堂に現れたシリ様に、グユウ様の頬がさっと赤らんだ。


視線は飾り櫛に向かい、やがてシリ様の顔へ。


寡黙なお方は言葉を発しない。


けれど、その黒い瞳とわずかな表情の揺らぎは、

「きれいだ」と何度も告げているのと同じだった。


「身体は大丈夫か」

優しい声が落ちる。


「大丈夫です。ご心配をおかけしました」

シリ様が微笑むと、グユウ様は短く「そうか」とだけ答えた。


けれど私は知っている。


そのひとことに、どれほどの想いが込められているかを。


想い合う二人の幸福を、私が壊してはならない。


この秘密だけは、誰にも話さない。


そう心に誓いながら、私は拳を固く握りしめた。


◇


門の外に馬車が停まり、赤と白の旗が風にはためく。


誰もが息を呑んだ。


あの方が、来られたのだ。


黄金色の髪、青い瞳。


鋭い眼差しと、周囲を圧倒する空気。


ただ立っているだけで、城に影を落とすような存在感――それがシリ様の兄、ゼンシ様だった。


「義兄上、お待ちしておりました」

グユウ様が深々と頭を下げる。


その背後に控えていたシリ様は、一瞬、身をすくませたように見えた。


けれど次の瞬間、勇気を振り絞ったかのように前へ進み出る。


「兄上・・・お久しゅうございます」

微笑んでそう言うシリ様の声は、わずかに震えていた。


私は思わず胸を押さえた。


ゼンシ様の視線がシリ様を射抜く。


その眼差しに、私は底知れぬ欲と支配を感じ取った。


――また、あの夜のように。


ゼンシ様の白く細い指が、シリ様の首筋に添えられた。


その瞬間、シリ様の肩がびくりと震える。


「髪は結わずに下ろした方が似合う」

低い声が、耳元に落とされた。


後ろに控えていた私にすら、かろうじて聞き取れるほどの小さな囁きだった。


恐怖のせいか、シリ様は声を発することもできず、ただ小さくうなずく。


ゼンシ様の指先が顎を掬い上げ、顔を間近に引き寄せる。


「青色が似合う」

ピンクの髪飾りに一瞥をくれ、その視線は冷たく唇にまで落ちてきた。


――触れるのではないか。

私は息を呑み、思わず唇を震わせた。


「・・・後で話そう」

そう囁いた声は、明らかに妹を愛玩する言葉ではなかった。


まるで、グユウ様に見せつけるかのような仕草。


私は恐怖と怒りで胸が焼けつきそうになった。


だが――グユウ様はただ静かに、無言で義兄を見つめているだけだった。


その黒い瞳に何が宿っていたのか、私には読み取ることができなかった。


◇


ゼンシ様の手が離れた瞬間、シリ様はわずかに息を吐かれた。


兄妹のやり取りは、ほんの数秒のことにすぎなかったはずなのに、私には途方もなく長い時間に思えた。


「・・・疲れました。部屋に戻ります」

かすかな声でそう告げ、シリ様は裾を握りしめて歩き出す。


震える足取り。


だが、倒れるわけにはいかないとでも言うように、姿勢だけは正しておられた。


私は慌ててその背に従った。


扉を閉めると同時に、シリ様は膝から崩れ落ちるように床へ座り込まれた。


「シリ様・・・」

声をかけ、私は背に手を添えた。


部屋の中には私たち二人だけ。


けれど、あの恐怖と絶望はまだ色濃く残っていた。


胸の奥が締めつけられる。


――この方を守らなければ。


でも・・・どうしたら良いのだろう。


途方に暮れながら、シリ様の肩を抱き支え続けた。


◇


そのままゼンシ様はグユウ様と会談に入り、私は胸のざわめきを抑えきれぬまま一日を過ごした。


夜更け。


寝室の扉が控えめに叩かれる音がした。


訪れたのは重臣ジムであった。


「シリ様、お伝えすることがございます」

「ジム、夜遅くにありがとう」


ジムは深刻な面持ちで口を開いた。


「・・・ゼンシ様から伝言を預かっております」


「兄上が・・・何か」

シリ様の声が硬くなる。


私の胸にも、冷たいものが走った。


「明日の早朝、シリ様と二人だけでお話をされたいとのこと。東側に部屋をご用意しました。

周囲には家臣を置かず、兄妹ゆっくりと・・・とのご意向です」


一瞬、耳が音を失った。


ーー二人きり? そんな。


まさか、またあの夜のようなことが。


血の気が引いていくのを自覚しながら、私は必死に立っている脚に力を込めた。


シリ様は無言のまま、ただ静かに頷かれている。


その姿を見て、胸が張り裂けそうになった


「わかりました。グユウさんは、その事をご存知ですか」

語尾を震わせまいと、シリ様は気丈に問い返す。


「はい。グユウ様の前で、ゼンシ様ご自身がお話しされました」


シリ様はしばし黙し、やがて顔を上げられた。


その青い瞳には、恐怖よりも別の光が宿っていた。


「ジム・・・お願いがあるの」


「何なりと」

ジムは膝をつき、耳を傾ける。


次に放たれた言葉に、私は息を呑んだ。


「明日の朝、東側の部屋の隠し小部屋に待機してください。

そして、私と兄上の会話を、すべて記録してほしいの」


「・・・記録、でございますか?」

ジムの顔に困惑が走る。


私も同じだった。


兄妹の密談を、あえて外に残すなど聞いたことがない。


けれど、シリ様はきっぱりと続けた。


「ええ。何があっても部屋から出てはいけません。

その記録を、グユウさんに渡して。そして・・・エマにも」


その瞬間、胸が締めつけられた。


ーーなぜ私にまで? 


震える心臓を押さえながら、ただうなずくしかなかった。


ジムもまた顔を強張らせながら深く頭を下げる。


「・・・承知いたしました」


シリ様の横顔は、静かな決意に包まれていた。


ーーシリ様、何をお考えですか?


答えを探ろうとしても、その表情からは何もわからなかった。


◇


あくる日。

まだ日も昇らぬ早朝、部屋にはろうそくの灯りが淡く揺れていた。


無言のまま髪にブラシを通すたび、シリ様の呼吸は浅くなる。


纏われたのは、ゼンシ様好みの濃い青色のドレス。


髪は結わず、金の波をそのまま流した。


「エマ、帯を取って。ええ、その銀色のものを」

命じられるまま、ほっそりとした腰に飾り帯を巻く。


「・・・お腹に、ですか」

思わず遠慮がちに尋ねる。


「ええ。お腹に巻いてほしいの」

きっぱりとした声。


まるで自分を鎧うようだった。


支度が整い、彼女は静かに告げる。


「行ってきます」


その瞳は、戦場に赴く兵士のように険しく研ぎ澄まされていた。


妃、それも妊娠中のお方が――兄と対峙しようとしている。


――大丈夫だろうか。


姿勢を正し、毅然と歩み去っていく背中を見送りながら、

私は胸の奥をぎゅっと掴まれる思いだった。


◇


シリ様が去られてから、私は何をするでもなく寝室に待機していた。


考えれば考えるほど、胸に浮かぶのは最悪の想像ばかり。


祈るように時を刻み、やっと三十分ほどが過ぎたころ――寝室の扉が慌ただしく叩かれた。


扉を開けると、ジムが荒い息を吐きながら立っていた。


「終わりました。すぐに東側の部屋へ・・・!」

「承知しました!」


私は夢中で駆け出した。


こんな短時間で面談が終わるなんて――どうか、何もなかったと信じたい。


せめて、シリ様のお顔をこの目で確かめるまでは安心できない。


東側の部屋に飛び込むと、そこには机に凭れ、ぐったりとしたシリ様の姿があった。


「シリ様・・・!」


震える声で呼びかけると、シリ様はゆっくりと身を起こされた。


その身体は鉛のように重そうで、顔色も蒼白だった。


「エマ、心配することは何も起こらなかったわ。詳しくは・・・ジムに聞いて」

力のない声でそう告げられる。


私は、その言葉の裏に潜む壮絶さに気づくこともなく、ただ安堵の涙がにじんだ。


「シリ様・・・お疲れです。少し休まれては」


「そんな時間はないの」

首を振られた瞳は、燃えるような静けさを帯びていた。


「急いでお見送りをしないと」


「こんな時間に・・・? どなたをお見送りに」


「兄上がお帰りよ。急用でお急ぎなの」

シリ様は微笑みながら立ち上がられた。


その背中には、もはや怯えも迷いもなく――ただ、覚悟と誇りが漂っていた。


◇


ゼンシ様は、まるで逃げるように城を後にされた。


あの鋭い瞳の領主が、あんなにも落ち着きを欠いた姿を見せるなんて。


――何かあったに違いない。


だが、それが何なのか、私にはさっぱりわからなかった。


そんな折、シリ様がふいに私の方へ振り返られた。


「エマ、悪いけれど・・・城下の薬師に届け物をお願いできるかしら」

それは侍女に頼めば済むような、些細な用事だった。


「私が参りますが・・・シリ様は大丈夫で?」

思わず問い返す。


「ええ。少し一人になりたいの」

やわらかな微笑み。


だが、その瞳の奥には、言葉にできない何かが潜んでいた。


私は深く頭を下げ、部屋を辞した。


◇


城に戻ると、蒼白な顔のジムが私を待っていた。


無言のまま部屋に通され、彼が差し出したのは一枚の羊皮紙――報告書だった。


震える手で受け取ると、そこには簡潔な筆致でこう記されていた。


――ゼンシ様、シリ様に接近し、口づけを試みる。

――シリ様、ナイフを手に取り、自らの首に当てる。

――両者、言葉を交わし、最後は和解に至る。


わずか数行。


けれど、その背後にどれほどの壮絶なやり取りがあったのか、想像するだけで血の気が引いた。


「・・・これは・・・」

私は言葉を失くした。


報告書を持つ指先が震える。


「私の予想ですが・・・これは、シリ様が遺言のつもりで私に指示を託したんだと思います」

ジムの声がかすれる。


「遺言・・・?」

乾いた声が室内に響いた。


「はい」

報告書は、何度も握りしめられ、くしゃくしゃになり、伸ばされた形跡があった。


グユウ様もこれを読まれたに違いない。


「シリ様は・・・」


「馬場に行かれました。グユウ様が今、跡を追っておられます」


その言葉を聞いた瞬間、私は弾かれたように椅子から立ち上がった。


――シリ様は、グユウ様に秘密を話すかもしれない。止めなくては!


思わずドアノブに手をかけた私の手を、ジムが制した。


「どこへ行かれるのですか」


「シリ様・・・シリ様のところに行かなくては」

震える声で言うと、ジムが静かに口を開いた。


「今、お二人で話し合っておられます」


私は思わずジムの顔を見つめた。


「お二人に、委ねたらどうですか」


その言葉に、胸の奥が冷たくなる。


ーーこの人は、どこまで理解しているのだろう。


けれど、それを聞く勇気は私にはなかった。


ジムの言葉に、私はドアノブから手を離した。


胸の奥がざわついて、今にも駆け出したい衝動に駆られる。


私はただ、祈るしかなかった。


ーーどうか、シリ様をお守りください。


どうか、あのお二人の絆が壊れませんように。


◇


やがて、玄関の方から足音が響いた。


振り向いた私は、息を呑む。


――そこにいたのは、並んで歩くシリ様とグユウ様。


二人は何も語らず、ただ自然に手を繋いでいた。


その手は固く結ばれ、決して離れることはない――そう告げているように見えた。


私は胸に熱いものが込み上げ、堪えきれずシリ様に抱きついた。


「・・・シリ様・・・」

声が震えてしまう。


シリ様は少し驚いたように目を見開かれたが、すぐに優しい微笑みを浮かべられた。


「エマ、心配かけてごめんね」


「シリ様は本当に・・・心臓が持ちません」

私は涙ながらに言葉を漏らした。


「昼食の用意ができています」

ジムが穏やかに告げる。


◇


私とシリ様は並んで歩きながら、ホールへと向かった。


けれど、胸のざわめきは消えない。


思わず、躊躇いがちに口を開く。


「シリ様・・・その・・・」

――グユウ様に、どこまで話されたのだろうか。


「エマ・・・全てを話したわ」


「全て・・・?!」

声が裏返ってしまった。


シリ様は少し微笑まれて、静かに続ける。


「私が子供を産んだら・・・“オレの子だ”と、グユウさんは言ってくれたの」


耳を疑った。


ーー本当に? 


信じたい言葉。


けれど疑問も拭えない。


「そして・・・ね」

シリ様の声が弾んだ。


「グユウさん、笑ってくれたの。にっこりと」

嬉しそうに告げるその横顔に、胸が熱くなる。


――あの無表情なグユウ様が、にっこり笑う?


信じがたい話だった。


だが、嘘を言っている瞳ではなかった。


◇


昼食の席は、まるで宴のようだった。


ゼンシ様の訪問に備えて働きづめだった人々――家臣も侍女も女中も馬丁も、皆が顔をそろえていた。


用意された食卓には、温かな料理が並び、疲れを癒すように笑い声が広がっていく。


その中で、グユウ様がすっと立ち上がられた。


「皆に知らせたいことがある」

低く響く声に、場のざわめきが静まる。


「シリに子ができた。来年二月には産まれる」


一瞬の沈黙。


そして、どっと湧き上がる歓声。


「おめでとうございます!」

「万歳!」

「領主様にお世継ぎが!」


喜びの声が重なり、涙ぐむ者もいる。


その中心で、シリ様は顔を赤らめ、こほんと咳をして小さくうなずかれた。


――妊娠は、確かに祝福されるべき出来事なのだ。


私は胸が熱くなった。


ここ数日、恐怖と絶望の影しか見えていなかったのに・・・

この瞬間、城中が一つになり、未来を信じて喜んでいた。


ふと横を見ると、グユウ様とシリ様が互いに微笑み合っていた。


無表情なはずの御方の口元が、わずかに緩んでいる。


ほんの一瞬だったが――確かに笑っておられた。


――あぁ、本当に。


私は目頭を押さえながら、心の中で静かに誓った。


この幸せを壊してはならない。


その秘密を知るのは――シリ様と、グユウ様と、そして私だけ。


たった三人の胸の奥に閉じ込められた、永遠に封じられるべき真実なのだ。


政略で結ばれた夫婦は、もはや政略ではない。


互いの心を開き、秘密さえも受け入れた。


その証を守るのが、私の役目だ。


ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


この短編は『秘密を抱えた政略結婚』本編のスピンオフで、

乳母エマ視点によるエピソード(第10作目)です。


短編だけでもお楽しみいただけますが、

本編を読むと二人のすれ違いや政略の背景がより深く伝わります。


本編はこちら

『秘密を抱えた政略結婚 〜兄に逆らえず嫁いだ私と、無愛想な夫の城で始まる物語〜』

(Nコード:N2799Jo)

https://ncode.syosetu.com/n2799jo/


完結済み、政略結婚から始まる恋と戦と家族の物語です。


そして、この短編を気に入ってくださった方へ。


短編をまとめた連載版『<短編集>無口な領主と気丈な姫の婚姻録』も公開中です。

https://ncode.syosetu.com/N9978KZ/


※この短編も、1週間後に短編集に追加予定です。


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