第5話〜幕間〜《影》、独白する⑤
アッシュ侯爵家の子息が死亡した事件は、瞬く間に王都を駆け巡った。
殺害現場に居合わせた使用人――あの日、私をシュトルンの居室へ案内したメイドの証言により、犯人はライトメア子爵家の長女、つまり私だと断定された。
事態は重大だった。
侯爵家の当主は激怒し、ライトメア家に正式な抗議と賠償の要求を突きつけた。
その圧力に抗えるほど、私の家――ライトメア家は強くない。
貴族同士の序列は、時に剣よりも残酷で、容赦なく家を押し潰す。
ライトメア家は、何も言い返せなかった。
……私に正当性があるなど、誰ひとり、信じようとしなかったから。
あの家にとって私は、初めから“いないほうが都合のいい”存在だったのかもしれない。
――けれど、そのとき。
思いもよらないところから、手が差し伸べられた。
ファティマ女王国の女王陛下が、「その件は王家で預かる」と宣言したのだ。
裏では、ギルシア公爵家の当主――ルー・ギルシア公爵閣下の進言があったらしい。
“影”を通じて、私は女王陛下の耳にまで名を知られていた。そして、その価値を買われた。
こうして事件は、王家の裁可によって「故殺」と判断され、「計画性はなかった」として処理された。
私の身柄は、ギルシア家での「預かり」という暫定処分に落ち着いた。
正式な裁判の場は与えられなかったけれど、
その代わり、“罪”という名の処分はきちんと下された。
――貴族籍の剥奪。
――ライトメア子爵家からの除籍。
その日、私はただ黙って、公文書に署名した。
不思議と、涙も怒りも湧かなかった。
──むしろ少しだけ。本当に、ほんの少しだけど、楽になった気がした。
* * *
それからしばらくして、私はギルシア公爵家の応接間に呼び出された。
重厚な革張りのソファ。薄いハーブの香り。窓の外では鳥が鳴いていた。
あまりにも穏やかで、私の内側のざらついた感情が、場違いに思えるほどだった。
ルー様は、いつもと変わらぬ柔らかな表情で、テーブル越しに向き合った。
けれど、口を開いたその瞬間、その言葉は私の中に深く刺さった。
「シエラ。君を、私の娘として迎えようと思う」
……思考が、数秒止まった。
何かの冗談だろうか、とすら思った。
けれど、あの人の目は本気だった。いつもの飄々とした仮面の下に、揺るぎない意志があるのを、私は直感で感じ取った。
私は、思わず首を振って否定していた。
「そんな……私のような罪人を、どうして……」
ふいに肩に手が置かれた。
振り向けば、ルシア様がにっこりと笑っていた。
「これ、素敵な提案じゃない? 私、ずっと妹が欲しかったの」
ふざけているようにも見えるその口調に、私はどう返していいか、わからなかった。
それでも、ルー様の声は穏やかに、そして揺るぎなく続く。
「君が背負ってきたものを、私はすべて知っている。
私の家で、君が自分を取り戻せるのなら……それ以上の誇りはないよ」
まるで、ひとつの国家を動かすかのような静かな力が、その言葉にはあった。
私は、少し黙ってから、かすれるような声で聞き返した。
「……本当に、いいんですか。私などを……」
ルー様は微笑んだ。
「“私など”、などと言ってはいけない。君は、必要とされている。
この国には、必要な人材を、見捨てる余裕などない。──ただ、それだけのことです」
……気づけば、私は小さく、うなずいていた。
こうして私は、ギルシア公爵家の養子となった。
「君は今後も、“シエラ”という名を名乗るつもりですか?」
それを尋ねられたのは、手続きをすべて終えた直後のことだった。
新しい戸籍、新しい姓、新しい人生――
名前さえ、変えられる。
「城下ではまだ、噂が尾を引いています。新しい名で始めることもできますよ」
ルー様は、そう穏やかに続けた。
ギルシアの姓を名乗れば、きっと過去の私を“なかったこと”にできるだろう。
忌まわしい事件も、家族の拒絶も――すべてを。
けれど、それは――。
「いいえ。私は、“シエラ”のままで」
ライトメアという姓は、もう要らない。
でも、“シエラ”という名だけは、捨てたくなかった。
あの子と――アンナと、一緒に笑った日々。
夢を語り合って、くだらないことで笑って、何でもない日常を抱きしめた時間。
そのすべてが、“シエラ”という名の中にある。
それを手放したら、私は本当に独りになってしまう気がした。
だから私は、首を振ってこう言った。
「……ただの、“シエラ”でいさせてください」
ルー様は一瞬だけ目を伏せ、それから静かに微笑んだ。
「そうですか。それもまた、君らしい選択ですね」
――その目は、まるで何かを肯定するように、やわらかく、そして深かった。
と。
「ふふっ、本当にシエラが妹になってくれたのね! うれしいわ!」
ルシア様が突然、私の腕に抱きついてきた。
その笑顔は、あまりにも屈託がなくて。
何ひとつ疑いも打算もなく、ただ――心から、喜んでくれているようだった。
「これからはお姉さんが、ビシバシ魔法を教えてあげるから。覚悟しておいてね?」
思わず、私は肩をすくめて笑ってしまう。
「……お手柔らかにお願いします、ルシア様」
あの日、あの部屋に漂っていた空気は、どこかやさしくて、あたたかくて。
それはたぶん、私が“生き直す”ための、ほんとうの始まりだった。
* * *
これが、私が“女を武器にしない”理由。
そして、
“誰にも抱かれたくない”と思うようになった理由。
……いや、正確には、“思ってしまった”理由、かもしれない。
あれ以来、男の体温を思い出すだけで、震えがくる。
皮膚が覚えてるのだ。嫌というほど、はっきりと。
笑おうとしても笑えなくなる。
服の上からでも、肩に触れられただけで身体が固まって――
そのまま、時間が止まるみたいに、動けなくなる。
ああ、私、まだダメなんだなって。
もう何年も経っているのに。訓練だって、任務だってこなしてるのに。
「色を使えば早い」――そんなの、何度言われたか分からない。
でも私は、いつも笑ってかわした。
「そういうの、向いてませんから」
向いてないんじゃない。
やりたくないんでもない。
……できないのだ、私には。
諜報員としては不完全かもしれない。
仕事の幅も限られるし、評価だって決して高くはならない。
それでもいいと思ってる。
私が私でいられるためには、ここを譲ったら終わりだから。
剣を抜くのは構わない。
誰かの命を奪うのも、必要ならやる。
でも――身体を差し出すくらいなら、任務を降りる。
そう決めたのは、“誰かに奪われて壊れる自分”を、二度と見たくなかったから。
そうまでして守ってる“私”なんて、取るに足らないかもしれないけど。
それでも今日も、私は“シエラ”として任務をこなしている。
呪われた剣は、できる限り抜かずにすむように。
抜いたときは、きっともう、戻れないから。
それでも――
信じたいと思っている。あの剣が、私の手元にやってきた意味を。
それはただの“呪い”じゃない。
あれは、“生きろ”って、私に言ってくれた唯一の味方だったのかもしれないから。
そんなふうに思える日が、ほんの少しだけ、あるのだ。
それだけのこと。