第4話〜幕間〜《影》、独白する④
その後、私は――逃げ出した。
自分の家にも戻れず、ファティマ女王国の城下をただ彷徨った。
遠くから、屋敷の混乱が微かに響いてくる。
アッシュ侯爵家の子息が殺された――その衝撃に、街はざわついていた。
「物騒ね……」
「何があったのかしら」
「侯爵家の次男坊って言ってたわよ」
「まさか、暗殺……?」
人々の声が、風に乗って耳に届く。
誰も真実は知らず、ただ噂だけが一人歩きし、事件の輪郭だけが歪んだ影のように広がっていた。
私はフードを深く被り、人混みに紛れて歩き続けた。
逃げるのは、諜報員として慣れているはずだった。
けれど、どこにも行き先がなかった。
自分の居場所が、もうどこにもないような気がしていた。
――そんな時だった。
「……シエラ?」
呼び止める声に、思わず足を止めて振り返る。
そこに立っていたのは――ルシア・ギルシア公爵令嬢。
“影”の総帥ルー様の実の娘にして、ファティマ女王国魔法兵団の総責任者。
“影”に入ったばかりの頃、魔法の基礎を一から教えてくれた恩師でもある。
「努力すれば、力は応えてくれる」――その言葉が、今の私を支えていた。
「こんなところで何してるの……って、血……!」
返り血を浴びた私の姿に、ルシア様は一瞬だけ眉をひそめた。
けれど、それ以上何も問わず、迷いなく私を抱きしめてくれた。
そっと背中を撫でるその手の温もりに、張りつめていたものが音もなく崩れていく。
「あたたかいお風呂に入りましょう。……大丈夫、何も言わなくていい」
優しい声。
何も問われないというだけで、これほど心がほどけるとは思わなかった。
気づけば、涙が落ちていた。
止めようとしても、止められなかった。
こぼれるものは、流してしまっていい――
彼女の掌が、そう語りかけてくれている気がした。
私は静かに、ルシア様の腕に身を預けた。
ギルシア公爵家の屋敷へと連れて行かれた私は、浴室を借りて身を清めたあと、ルー様と再び対面した。
彼は、まるで私の訪問をすでに知っていたかのように、机に向かって書類をめくりながらも、ふと顔を上げてこう告げた。
「――おかえり」
その声には、静かな確信と、少しの労わりが滲んでいた。
「……今夜、君が何をするか。おおよその想像はついていました」
まるで、すべてを見通していたかのような言い方だった。
「君を選んだその剣は、“呪い”を宿した剣です」
――呪い。
その言葉だけで、空気が変わった気がした。
「永らく行方をくらましていたその剣を、ようやく追い詰めた。だが……間に合わなかった。
君の精神と共鳴し、君を持ち主に選んでしまったんだ。……これは、私の見誤りでもある。すまない」
「……意味がわかりません」
そう答えながらも、どこかで思い当たる気がしていた。
「“呪い”とは、持ち主に災厄と不幸をもたらす力だ。死を好み、血に飢え、絶望を糧とする。……剣に触れた者の魂を舐めとるように。
剣を抜いた瞬間、君はそれに飲まれた。それでも我を失わず戻ってきたのは……君が異常なほど強かったからだ」
私はただ黙って、ルー様の言葉に耳を傾けていた。
「世に“魔剣”と呼ばれる剣がある。使いこなせば万の敵をも屠るが、そのほとんどが“呪われた剣”だ。
人の魂を喰らい、宿主を狂わせる……だが、ごく稀に、“選ばれる”者がいる」
そう言って、ルー様は一拍おき、私をまっすぐに見据えた。
「その剣は、君を選んだ」
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
手の中で、あの剣が震えているような感覚――
声が、また私を呼ぶ気がして。思わず、目を伏せた。
「シエラ、君は……どうしたい?」
どうしたいのか。どうすればいいのか。
何もわからなかった。
胸の奥は、まだ混乱の渦の中にあって、言葉にできるものは何一つ浮かんでこなかった。
私は答えられず、ただ黙って立ち尽くした。
するとルー様は、ふと表情をやわらげ、目元に優しさを宿した。
「……今はこの屋敷で、ゆっくり過ごしなさい。
後始末は、私に任せるといい」
それだけを言い残して、彼は部屋をあとにした。
扉が静かに閉まる音だけが、部屋に残された。
私はその場にしゃがみ込み、両腕で自分の体を抱きしめた。
ようやく、一つ息がこぼれた。
それが涙だったのか、ただの呼吸だったのか――自分でも、もうわからなかった。