第2話〜幕間〜《影》、独白する②
妹アンナの婚約者――シュトルン・アッシュ。
彼は私のことを「家族」としてではなく、「女」として見ていた。
それに気づいたのは、ほんの些細な違和感だった。
不意に触れてくる指先の位置。熱を帯びた視線。
何気ない会話の中で、ふと距離を詰めてくる間合い。
初めは気のせいだと思った。私の勘違いだと、そう思おうとしていた。
……でも、違った。
「――ねえ、君は、どうしてそんな目で僕を見るの?」
微笑を浮かべて、あの男はそう言った。
その夜、家にアンナがいなかったのは、偶然ではない。
押し倒された瞬間、思考が白く途切れた。
信じていた日常が、音を立てて崩れていく。
妹の婚約者が、なぜ私にこんなことをするのか――理解が追いつかなかった。
必死に抵抗しても、力では敵わない。
どれだけやめてと叫んでも、壁は無言で声を吸い込むだけだった。
「……これは、君の責任だよ」
事が終わったあと、彼はそんな言葉を平然と口にした。
「僕をその気にさせたのは君だ。……でも、僕は君を許すつもりだ」
私は許しなど求めていない。
それでも彼は、私の唇に微笑みを貼りつけるようにして、そう言った。
その夜から、私の地獄が始まった。
彼は私に触れたことを「罪」ではなく「関係」だと呼んだ。
そして、「このことを誰かに話せば、家がどうなるか分かっているだろう?」と、穏やかな口調で脅してきた。
――ライトメア家が、侯爵家に泥を塗るとでも?
そうなれば、アンナの縁談は破談になる。
成り上がりの我が家がようやく掴んだ、数少ない貴縁は失われる。
父も母も、何よりアンナが、どれほど傷つくか――彼はそれをよく知っていた。
だから私は、従った。
自分を切り捨てることで、家を守ろうとした。
誰かが気づいていたはずだった。
けれど、誰も咎めなかった。
任務があると言えば、数日家を空ける理由になった。
その間に呼び出され、身体を穢された。
その度に組織の薬品保管庫から、こっそりと緊急避妊薬を盗んで飲んだ。
それが、ひどく惨めだった。
――一年近く、そんな日々が続いた。
拒む言葉は喉元で潰れ、
助けを求める声は、心の奥で腐っていった。
任務中に命のやりとりをするほうが、よほど気が楽だった。
どんなに残酷な相手でも、剣は嘘をつかない。
けれど――人間は、平気で仮面をかぶる。
そんな、身も心も疲れ切っていた頃のことだった。
私は“影”として、ただ命令に従い、任務をこなしていた。
感情を押し殺し、余計なことは考えず、ただ動く。それが、唯一の逃げ道でもあった。
その日、私はある古い屋敷に潜入していた。
目的は一振りの剣――「黒鞘のそれを奪取せよ」
それだけが与えられた指示だった。
何の変哲もない、ありふれた隠し部屋。
埃を被った装飾棚の奥に、それはあった。
封じられるように、ひとつの台座に据えられて。
それはまるで、ずっと“私を待っていた”かのようだった。
私はそれを見た瞬間、足が止まった。
嫌な空気。空間がざわつく。目に見えぬ“何か”が、肌を這う。
それでも、任務だからと私は手を伸ばした。
指先が鞘に触れた、その瞬間だった。
《ようやく来たな》
……声。
誰のものでもない。
けれど確かに、“こちらを見ている”気配があった。
《お前の奥底に眠る怒りを、悲しみを、絶望を……私は知っている》
鞘の中にいる“何か”が、私の心の奥底を覗き込んでいた。
自分ですら蓋をしていた感情たちが、ざらざらと表に浮かび上がる。
やめて――と、思った。
触れてはいけない。これ以上、私は壊れてしまう。
けれど、手は離せなかった。
むしろ、吸い寄せられるように力が入っていく。
――誰かに、理解されると思ったのかもしれない。
それが“呪い”だと、本能が叫んでいても。
その声が、私を“選んだ”と告げていても。
この地獄のような現実の中で、ようやく「何かが私を必要としてくれた」と、錯覚してしまったのかもしれない。
眩暈がした。
視界が暗く滲み、床が揺れる。
任務の途中だ。逃げなくては、と思った。けれど脚が動かない。
今は“影”として動く時。感情を挟むな。迷うな。自分を殺せ。
私は、剣を鞘ごと布で巻き、背に負った。
それが――“呪われた剣”との出会いだった。
後に私の運命を大きく変えることになる、確かに何かが狂い始めた瞬間だった。