第26話〜《影》、ブランとして振る舞う②
天幕の中は、焚き火の温もりが届かぬほど冷えた空気に満ちていた。
さきほど外で交わした視線の鋭さが、そのままここを支配している――。
ルカイヤは静かに杯を傾け、低く呟く。
「お前はどこの出だ。ブラン……少しは教えてみろ」
「……辺境の農村にて徴募されました。特筆すべき由緒はありません。名も血も、兵として足るのみです」
「つまらんな」
ぽつりと零されたその言葉に、シエラの胸が軽く震えた。
その瞳は、笑みを含みつつも、こちらを射抜く鋭さを失わなかった。
「しかし、つまらぬ者ほど、よく生き残るものだ。……それとも、お前は本当に“ただの兵”なのか?」
シエラは背筋を伸ばし、頭を低く垂れる。
偽ることなどできない――ルカイヤの前では。
「ルカイヤ様に偽ることなど――恐れ多くてできません。私はただ、御軍の勝利のために剣を振るう一兵です」
杯を傾ける音が、天幕の静寂に響く。
「よく喋る兵だ。酌を続けろ、ブラン」
(これは――試されている。疑われている。それでも、今は崩すわけにはいかない)
シエラは手を震わせず、瓶を取り上げ、静かに酒を注いだ。指先の冷たさが、ほんのわずかに心を締め付ける。
「……しかし、なるほどな。辺境の村、徴募兵か」
ルカイヤは杯をあおり、机に置く。視線は逸らさず、彼女をじっと見据えていた。
油断は許されない。息をすることさえ、重く感じられる。
「だが妙だな、ブラン」
声が低く、刃のように落ちる。
「今宵、お前が俺の天幕の周囲をうろついていた理由は何だ」
「ルカイヤ様の警備にあたる者の交代時刻を確認していました。外周の配置に不備がないか、確認を――」
「お前の階級で、それを気にする必要があるのか?」
言葉が鋭く遮る。
「下士の立場で警備全体に気を回す? 感心なことだが……それはまるで、俺を避けるための動きにも見えるぞ?」
「……いえ……」
「もしくは、何か“探していた”のではないか?」
杯を弄ぶ手は緩い。殺気はないが、瞳だけが獣の距離で測ってくる。
口元の微笑みは、答えなど最初から求めていない目に変わる。
「ブラン――お前の歩き方、腰の重心、剣の位置、間合いの取り方……徴募兵には見えん」
「……」
「お前は系統立てて叩き込まれた者だ。素人ではない」
瓶を傾けかけた手が杯の口元で止まる。
「だとすれば、なぜ辺境の徴募兵なのか?」
沈黙が、天幕を重く覆う。答えれば矛盾する。否定すれば不自然。
脳裏を冷たい霧が這う。
「私は……村の警備団で、素振り程度の心得があります。実戦は、ルカイヤ様の軍に加わり、初めて――」
「“村の警備団”だと?」
再び杯を口に含む仕草は優雅だが、言葉は鋭く刺さる。
「“徴募兵として戦場に出るのは初めて”と言うか。
だが先ほどの反応はどうだ。お前は俺の気配を読み、直ぐに反応を示した。……その察しの良さ、素人には見えんな」
杯が机に置かれる音が異様に響く。
「それに――その手。剣の重みに慣れた手だ。それは“素振り”では身に付かん」
口元の微笑みさえ、不気味に感じられる。
「……気づいていたぞ、“最初から”」
(……やはり)
寒気が背筋を這った。シエラは、とっくに見抜かれていたのだ。
あの目、あの笑み。戯れのように見せつつ、矛盾を拾い、じわじわと包囲していた。
そして、笑みは消え、声が低く落ちる。
「“貴様は誰だ”」
空気は濃密な血のように変わる。
ルカイヤは立ち上がり、見下ろす。視線が、心臓を貫く。
「敵の兵か。刺客か。魔術師どもの間者か。……それとも、“あの女王国”の犬か」
(まずい……逃げられない)
黒い瞳――“血塗れの白狼”。
噂以上の、底知れぬ殺意を湛えていた。
少しでも逃げの選択を選べば――殺される。
「名を答えろ。“ブラン”ではなく、貴様自身の名を」
声は低く、感情を押し殺しているが、奥の殺気は刃を研ぐ音のように鋭く、ひりつく。
喉が渇き、言葉を詰まらせる。
それでも口を開く。
「……私は、御軍に徴募された兵士です。農村の出で、名はブラン。――それ以上でも、それ以下でもありません」
背筋を伸ばし、表情を変えず、声を張る。嘘に嘘を重ねて塗り固めるしかなかった。
「ほう……?」
黒い瞳が細くなる。顎を撫でながら、じっと見下ろす。
「では訊く。なぜ“男の服”を着ている?」
「……それは、戦場で目立たぬよう――」
「ふん、見た目の話ではない。……服の中身だ」
――その言葉だけは、淡々と、感情を押し殺し突きつけられた。シエラは心臓を掴まれたような錯覚を起こす。
「その肩幅、その喉仏、その腕の線。鍛えてはいるが、男の骨格ではない。隠すのは構わん。だが、隠せていると思っていたのか」
胸の奥が跳ねる。心臓の音が耳に届く。
ルカイヤが足元をにじる。靴が砂を噛む音が、天幕に重く響く。
「カーナ軍に“女兵”などいない。女騎士はいるが、徴募で女は取らぬ。……男装して忍び込んだ間者と見て、まず間違いないな?」
「っ……私は、ただ、戦いに……!」
「黙れ」
一言で声は止まる。刃で首を撫でられたような冷たさ。
「……情報を引き出すために、体を使うつもりだったか」
低く吐き捨てる声が、底知れぬ負の響きを纏ってシエラの耳に落ちる。
「女の武器で媚びて男どもの機嫌を取ろうとする――俺が最も嫌う卑しい手口だ」
目に交錯する軽蔑と怒りと、冷たい諦念。
「貴様のようなものが――俺の兵を騙るな、“雌豚”が」
(……雌豚)
記憶が疼く――血のように脈打つ怒りが心をえぐる。
だが、体は動かせない。彼は本気で、“殺しても構わない”と思っている。
「……さあ、もう一度言え」
顎を強引に持ち上げる。触れられた瞬間、シエラの体が強張った。
「名は」
鋭い眼光が、碧の瞳を覗き込む。
腹の奥底にまで刃を差し入れ、臓腑を引きずり出すような、そんな錯覚を起こさせるルカイヤの漆黒の目。
私は――
「私の名は“ブラン”です。カーナ騎士皇国の一兵卒……」
まだ、兵士を演じる自分を信じていた。
その頑なさにルカイヤはくっと喉を鳴らす。
「最後まで“兵士”を演じてみせるというのなら、身をもって証明してみせろ」
鉄のような腕に肩を掴まれ、力が加わる。地面――いや、寝台に叩きつけられる。
覆いかぶさる男の、冷たい視線。
喉元に手がかかる。
「女を武器に情報を引き出そうとしたのなら――相手が悪かったな。それ相応の報いを受けても、文句は言えまい」
吐息が首筋をかすめる。だが、その手はすぐに喉を締めることはなかった。
まるで、試すように、揺さぶるように、わざとゆっくりと這う。
次の瞬間、腰を締めていた革帯が鋭い音を立てて引きちぎられた。
シエラの心臓がひときわ強く跳ねる。
――そして、チュニックがゆっくりとたくし上げられていく。
布越しに冷気が滑り込み、腹から胸元へと肌が晒されていく。
シエラは息を止め、体を強張らせた。かつての記憶が脳裏に蘇る。
抵抗は無意味だと体が知っている。だから、せめて心だけは折れまいと、奥歯を噛み締めた。
「隠したつもりか。こんなもので俺の目を誤魔化せると思うな」
低い嗤いが闇に落ちる。
ルカイヤの指が、白布を確かめるように撫でた。晒し――胸を押さえ込むための巻布。
薄闇の中、彼の瞳が嘲るように細まる。
「女のくせに、女の形を縛るとは。滑稽だな」
指が布の端を掴む。
刹那、裂ける音が鋭く響き、晒しが容赦なく破られた。
シエラの全身が震えた。
しかし叫びも拒絶もない。ただ、奥底で「ここで心まで壊されてたまるか」と心中で呟きながら、強張る体だけが彼女の意志を語っていた。
指先が布を裂き切ったその先で、黒い瞳がふと揺れた――獲物を貫く刃ではなく、何かを測るような、奇妙な間。
冷たい空気と共に、押し隠していた胸元が夜気にさらされる。
(殺される――のか?)
だが、そうではなかった。
激しさはあるが狂気はなく、力を持って屈服させようとするその粗暴さの裏に、妙な探るような眼差しがあった。
ルカイヤの視線は、その裸の輪郭を冷徹に測りながらも、どこか探るように揺れていた。
――そして、彼の手は途中で止まった。
「……違うな。貴様は、武器になどしていない。こんな体を使うくらいなら、死を選ぶ女だ」
低い声は、驚きでもあり、告白でもある。彼は気づいた――シエラが抱える“それ”を。
傷ついた過去。穢された記憶。触れるだけで心が裂かれる痛み。
しばし力を抜き、感情の名を持たぬまなざしで見下ろされる。
シエラは息を詰めた。心臓が、喉が、まるで重い鉄のように圧される。
そして、その静寂を破るように、口端が僅かに歪む。
笑みではない。愉悦に似た、薄い、ぞくりとする歪み。
「だが、興が乗った。――付き合ってもらうぞ」
その声は低く、ゆっくりと、しかし断固として迫る。
シエラは一瞬、言葉の意味を測りかねたが、すぐに理解する。
彼の興味は、体を武器にする女を殺すことではなく、拒絶し屈しない女の在り方を探ろうとする衝動へ揺れたのだ、と。
寝台の上で覆いかぶさるルカイヤの腕、その鉄のような力。
しかし同時に、その瞳の奥には、殺意ではなく、異質な探究心が光っていた。
その夜、シエラは決して優しくない夜を過ごしたが、酷く惨たらしくはされなかった。
嬲られ、蔑まれ、命を奪われる――ルシアから聞かされた話だったが、自分にはそれが起きなかった。
なぜか。
なぜ、この男は、自分を壊さなかったのか――
※ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本作『影と白狼の戦記』は、本話(第26話)をもちまして
「小説家になろう」での公開を一区切りとさせていただきます。
この先の物語は、登場人物の心情と関係がより深く踏み込む内容となり、
規約の関係上、こちらでの掲載が難しいため――
別サイト(カクヨム/エブリスタ) にて続編を公開してまいります。
続きが気になる方は、作者名または作品タイトルで検索していただけると嬉しいです。
今後も本作を見守っていただけましたら幸いです。
── 作者:那周ノン




