第25話〜《影》、ブランとして振る舞う①
薄闇の野営地。風に揺れる天幕の隙間からシエラ――ブランは息を潜め、内部を窺った。
“呪われた魔道具”の所在を探る手は固く冷えたままだった。だが――
「……何をしている、兵士よ」
背後から低く響く声。鋭く張り詰めた気配が、背中を射抜いた瞬間、身体中の血が凍るように震えた。
ゆっくりと振り返る。
そこには白銀の鎧に夜の闇を映す、黒髪の長身が立っていた――
「……ルカイヤ様」
心の中で、“最も警戒すべき相手に見つかった”と焦った。
しかし顔には一切出さず、深く礼をして答える。偽名を使い、徴募兵の一兵卒――“ブラン”として。
「おそれながら、ぼ……いえ、私は徴募で参りました、ブランと申します。夜の雑務の任に就いておりました」
田舎から来た素朴さを演じながら、不慣れさを纏った返しをする。
ルカイヤは一歩近づき、黒曜の瞳でじっとブラン――シエラを見つめる。
「……ブラン、か」
低く繰り返した声に、特別な色はなかった。ただ、まるでその名がどうでもよいものだと言わんばかりの様子だ。
「お前がこそこそ動いているのを見ていたが、なぜ俺の天幕をうろつく」
(見られていたか……)
内心で舌打ちしたい気持ちを抑え、シエラは冷静に目を合わせつつ、心中で瞬時に作戦を整理し、伏せ目がちに答える。
「任務ゆえに……詳細は申し上げられません。ルカイヤ様の御気分を害してはなりません」
彼は間を取り、にやりと笑った。
「なるほど、忠実な兵士らしい返答だな」
心臓が皮膚の下で荒く跳ね、背筋を冷たい汗がすべった。それでも表情を崩すわけにはいかない。
「はい、私はただの一兵卒。足手まといにならないよう、慎重を期している次第です」
ルカイヤは首をかしげ愉しげだ。だが、完全には敵意を隠せないものの、今は見逃す様子だった。
「よかろう、ブラン。これ以上余計な動きはするな。わかっているな」
「かしこまりました、ルカイヤ様」
心中で、まだ終わりではないと呟いた。これからが本当の勝負、まだ機会はあるはずだ。
そう立ち去ろうとするシエラを呼び止める声――
「待て、ブラン。アイゼンの世話が済んで暇だな。命令だ、少し酒に付き合え。……酌くらいはできるだろう?」
(……っ、冗談でしょう)
内心で声を上げかけるが、顔には出さない。
ルカイヤの一言に、シエラは胸の奥がひりつくのを覚えていた。馬小屋での一挙一動まで見られていた――そう悟りながらも、表情には微塵も出さない。
シエラは立ち止まり、ひと呼吸置いてからゆっくりと振り返った。
「……仰せのままに、ルカイヤ様」
言葉が硬くなるのを抑えつつ、シエラ――ブランは深く頭を下げた。
ブランは命じられるまま天幕へ導かれる。
兵帽を取り、胸に当てて深く礼を取った。
その仕草ひとつが、夜気よりも張り詰めた空気を天幕に満たす。
薄灯の光に照らされた皇子――いや、“血塗れの白狼”の私室は、想像よりも質素だった。
質の良い卓の上に散らばる地図や軍報、陶製の酒器が高貴さを場違いに滲ませる。
ルカイヤは椅子に腰掛け、背筋を伸ばしてこちらを見つめた。
「ブラン、まずは手伝え。鎧を脱ぐ」
一瞬、心臓が跳ねる。身体が近づきすぎる――ここで正体が露見したら終わりだ。
しかし、偽名の一兵卒として逆らうわけにはいかない。静かに頷く。
「かしこまりました」
「肩から外していけ」
低く簡潔な指示とともにルカイヤは腕を軽く広げ、肩甲を示す。
シエラは彼の傍らに立ち、両手を伸ばして肩甲に触れる。冷たい金属の感触を確かめながら、慎重に外していく。
至近距離にあるのは、幾度もの血戦を潜り抜けてきた男の肩。その動きは、荒々しさとは無縁で自然だった。
外した肩甲を卓に置く。
すぐに次の命令が落ちた。
「胸だ。次に背」
鎧を外す箇所の指示――
本来なら鎧を脱がすのは侍従の役目だ。だが、徴募の新兵だと名乗った故に、彼は逐一指示を出してきている。
(――なら、余計な違和感は与えず従うだけ)
その下にあった胸甲板と腹甲、背甲も外すと、黒衣に包まれた筋肉質な体が露わになり、思わず息を呑む。
(鎧が外れて威圧感は薄れた。けど、この筋肉……だからこそ、あんな風に剣を振り回せるのか)
大ぶりの剣を振るうに足る膂力が、目の前の肉体に宿っているのがわかる。
「腕だ」
短い言葉に従い手を動かす。
腕装備は肘から下を覆い、手首までの籠手。片手で軽々と剣を振るうため、空いた左手は攻撃にも防御にも使える。素早く動ける軽量装備――その合理性に、妙な納得をしていた。
(……これほどの体躯で、あれほどの速力。理屈ではなく、目で納得させられる)
籠手と前腕当て、肘当てを外す。指先が震えそうになるが、押さえ込む。
露わになる前腕はしなやかに動き、骨格と筋が噛み合って、力が流れる道筋だけがそこにある――そう見えた。
(観察だ。これは、ただの観察……それなのに、どうして“綺麗”なんて言葉が浮かぶの)
シエラの指先は微かに震えたが、手順を間違えぬよう集中する。鎧を一つずつ外すたび、筋肉の動きが見え、僅かに体が強張った。
「足も外せ」
片膝をついて跪き、膝当てと脛当てを外す。金属音が静かに響き、白銀の鎧は少しずつ卓の端へ積み重なっていく。
最後に鉄靴を外し、全身の鎧を脱ぎ終えたとき、ルカイヤは軽く頷いた。
「……よし」
一切の無駄がない所作と声。荒々しさではなく、淡々とした軍務の一環。
けれど近くで見て初めて気づく。血に塗れた戦場に立ち続けてきたはずなのに、その横顔は削れも濁りもなく、整った輪郭を保っていた。
皇子として育った者だけが纏う気品――それは同時に、容赦なく他者を押し潰す威圧にもつながっている。
そして、その眼差し。
鋭い刃のように研ぎ澄まされ、射抜かれると息が詰まる。皇族の気品と戦場の苛烈さ、その両方が宿っている視線だった。
(……戦場にいながら、やつれてもいない。そのうえで、この眼……)
理屈では納得できても、感情は追いつかず、思わず顔をしかめそうになる。
気品と威圧感が同居する姿は、観察者としての冷静さすら脅かしてくる。
シエラは礼をとり、視線を伏せた。
観察を続ける瞳の奥で――わずかに揺れた自分の感情を、必死に押し沈めた。
「座れ」
ルカイヤは椅子に腰掛けたまま、指示を出す。シエラは卓の傍らに膝をつき、薄灯の光に映る彼の表情に集中する。
「注げ」
手にした瓶から杯に酒を注ぐ。手は冷たく、震えを抑えながらも全神経がルカイヤに向けられていた。
「ふん……」
杯を傾け、無言で酒をひと口含む。
視線はシエラ――ブランを射抜くようで、言葉はない。だが、その沈黙自体が試練のように圧し掛かってくる。
天幕の外で夜風が鳴り、灯火がわずかに揺れた。




