第24話〜《影》、白銀に囁く
夜の野営地は、戦後のざわめきをすっかり飲み込み、焚き火の残り香だけを漂わせていた。
時折、木組みの杭がぱちりと鳴る音が、ひっそりとした空気を揺らす。
ブラン――シエラは水桶を抱え、馬小屋へ向かっていた。
徴募兵として割り振られた夜番の雑務。夕餉の片付けを終え、天幕に戻ろうとしたところで、馬丁を務める古参兵に呼び止められたのだ。
「おい新顔。アイゼンフーフの藁が湿ってきた。替えてやれ。
あいつを怖がる奴が多くてな、撫でても平気だったお前なら大丈夫だろう」
「わかりました」
返事をしながら、シエラは胸の奥で密かに息をついた。
――好機だ。
馬小屋はルカイヤの天幕に隣接している。
藁を運ぶふりをして近づけるこの機会、逃すわけにはいかなかった。
(……夜の空気がこんなに冷たいのに、心臓だけがやけに熱い)
胸の奥で鼓動が速まる。
周囲を見渡せば、見張りの兵が交代に立ち、焚き火を守っている。
火を落とすことはないが、燃料を節約するため炎は小さい。
灯りが弱い分、闇は濃く、影が多い。動くには好都合だが、息を潜めるには緊張を強いられる夜でもある。
馬小屋の柵扉を押し開けると、夜気に混じって馬の体温を帯びた温い空気がふわりと押し寄せてくる。
月明かりが藁床に淡く射し込み、白毛に灰を散らした巨馬の輪郭を銀色に縁取った。
桶を床に置き、シエラは静かに藁を抱えて歩を進めた。
巨馬は一歩も退かず、むしろ近づいてくる。鉄を思わせる蹄の重みが、足元の藁を柔らかく踏みしめた。
黒曜石のような瞳がこちらを射抜く。昼間よりも光を帯びたその黒は、焚き火の赤を映して深く輝いている。
「……こんばんは」
思わず声がこぼれた。
自分でも意外なほど柔らかい声音だった。
アイゼンフーフは耳を動かし、こちらを見返す。
人の言葉など理解しないはずなのに、どこか“聞いている”ような静けさがあった。
「お前、ほんと綺麗だね……」
藁を交換しながら、シエラは囁くように続ける。
ひとりきりだからこそ、つい口をついて出た言葉。
淡く光を帯びた毛並みは夜気に映えて、まるで霜を纏った月光の獣のようだった。
巨馬は鼻を鳴らし、わずかに首を下げてシエラの横顔を間近に覗き込む。
しばし見つめたのち、撫でてみろと言わんばかりに、ゆるやかに首を差し出した。
その仕草に思わず笑みが漏れ、ついその頭を撫でてやる。
「ふふ、意外と甘えん坊なんだね、お前」
ひとしきり撫でてやり、手を離す。
今は任務の最中だ。表情を引き締め、藁を整えながら周囲へ意識を向ける。
(……警備は東と南に二人ずつ。交代はおよそ三十分ごと。
天幕の裏手は……暗い。見張りも少ない)
藁を押し込み、視線だけで周囲を探る。
ルカイヤの天幕は馬小屋のすぐ向こう。柵を越えて十歩も進めば旗竿に届くほどの近さだ。
その赤い狼紋は夜でも鈍く光り、シエラの背に冷たい圧をかけてくる。
その奥に“呪われた魔道具”がある――そう確信するだけで、背筋に冷たいものが走った。
藁を替え終え、桶の水を満たす。
馬小屋の入口から外をうかがうと、見張りの兵がちょうど持ち場を離れ、交代の隙が生まれている。
今なら、天幕の裏へ回れる――。
(……今しかない)
桶を壁際に置き、シエラは息を殺して外へ出た。
夜風が頬を撫で、冷たい土の感触が靴底から伝わる。
焚き火の光は背後に遠ざかり、月明かりだけが足元を薄く照らしていた。
ふと、わずかな空気の揺れが、耳の奥をかすめた。
草を踏む音はない。見張りの兵の声もない。ただ夜気の奥から、理由のない寒気が忍び込んでくる。
(……なに……?)
シエラは無意識に息を呑んだ。
獣が息を潜める時に似た、得体の知れない圧。
だが、誰かの視線という確かな形は感じ取れない。
ただ、闇そのものがこちらを測っている――そんな錯覚だけが肌を刺した。
(……怖い? 違う。怖さごと飲み込めば、少しだけ、“生きている”実感が戻る)
その感覚は、死に近づくほど鮮明になる――いま“生きている”証でもあった。
自分がまだ“壊れていない”と証明するための証だった。
だから自分は絶対に任務を投げ出さない。
自分自身に「やるしかない」と言い聞かせ、奥歯を噛む。
ここで立ち止まれば、今までの潜入が無駄になる。
“呪われた魔道具”の所在を掴めるのは、この警備が薄いわずかな時間しかない。
シエラは足裏の感覚を確かめ、震え出しそうな指先を必死に抑え込む。
アイゼンフーフが鼻を鳴らす音が、微かに耳の奥を震わせた。
ブラン――シエラは、薄闇に沈む本営の天幕裏の影へ滑り込む。
幕の隙間に身を寄せ、灯火の奥をそっとうかがう。
そこに“呪われた魔道具”があるか――その一点だけを確かめるために。
指先は震えていない。だが背筋を冷たいものが駆け上がる。
――その時。
「……何をしている、兵士よ」
低く鋭い声が、背後から夜気を裂いた。




