表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

45/48

第23話〜《白狼》、気配に嗤う

 天幕の内。焚き火の煙と鉄の匂いが微かに流れ込む。

 机上に広げられた地図へ視線を落としながら、ルカイヤは静かに息を吐いた。


 ――やはり、いる。


 戦場で。森で。

 そして今、この野営の只中にも。


 兵どもの気配は粗雑だ。酒に濁り、疲労に沈み、あるいは怠惰に揺れる。

 だが、その海に一筋だけ異質なものが紛れ込んでいた。

 息を殺す術を心得た存在。歩調も音も、視線すら消し込もうとする影。


(……また、か)


 記憶が甦る。血に塗れた戦場で感じた視線。森の夜気に溶けていた女の息づかい。

 あのときと同じ匂いが、今ここにある。


 ふと、天幕の外で馬が鼻を鳴らした。


 ――アイゼンフーフ。


 低い嘶きに続いて、布越しにも伝わる蹄の踏み鳴らし。

 まるで主に合図を送るかのような、落ち着かぬ仕草だった。


「……ほう」


 地図から指を離し、立ち上がる。

 鎧は外したまま、外套だけを肩に掛け、無言で天幕を出た。


 朝靄に湿った空気。焚き火の残り香と獣脂の臭気。

 柵の前に佇む巨馬が、耳をこちらへ傾けていた。


 アイゼンフーフの黒曜石の瞳が、じっとある一点を見据えている。

 ルカイヤはその視線を追った。


 桶を片手に戻っていく徴募兵。

 兵帽を目深にかぶり、背筋をまっすぐに保ちつつも、動作の端々に無駄がない。


 一見すれば小柄――いや、女にしては背が高いはず。だが、彼の目には結局のところ矮小にすぎない。

 戦場で並び立つ男どもの多くすら矮小に見えるその身では、なおさらだった。

 周囲の兵に紛れてしまえば見過ごすほどの存在。だが――。


(……あれか)


 獣の勘が告げていた。

 あの時の視線の主。戦場でこちらを観察していた、森で戯れに見逃した女――


 口端がわずかに歪む。


「ふん……お前も俺と同じだ。面白いものを見つけたな、アイゼン」


 巨馬が短く嘶いた。

 主の声に応えるように、あるいは肯定するかのように。


 ルカイヤは柵越しに手をかけ、アイゼンフーフの首筋を軽く叩いた。

 硬い毛並みの下から、力強い鼓動が伝わってくる。


「そうか。俺が先に気配を嗅ぎ取ったのではない……お前が先に感じ取ったのだな」


 アイゼンフーフは再び首を振り、その黒い瞳で遠ざかる徴募兵の背中を追い続けていた。

 ルカイヤの目もまた、その先へと重なる。


(……間違いない。女だ)


 確証はない。顔も見えない。

 だが、呼吸の置き方、重心の揺らぎ――そして何より、あのときと同じ“気配”。


「……なるほど」


 低く呟く。

 徴募兵の仮面の下に潜むのが、あの女の気配であることは疑いようがなかった。


 なぜこの野営の奥まで紛れ込むのか。

 何を狙っているのか。

 まだ名も知らぬその者の目的は、知れぬ。


 だが――。


(俺を観察するだけでは飽き足らず……自ら檻に入ってきたか)


 口端がさらに吊り上がり、獣めいた愉悦が浮かんだ。


 アイゼンフーフが短く嘶いた。

 その黒い瞳は、まだ遠ざかる徴募兵の背を追い続けている。


「……よかろう」


 ルカイヤは呟き、天幕へと歩を返した。

 背後で、巨馬はなおも耳を動かし、主と同じものを見つめ続けていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ