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第22話〜《影》、馬の世話を言い渡される

 翌朝。

 野営地は戦の翌日らしく、重たい空気に包まれていた。

 前夜の酒盛りの余韻で、兵の半数は頭を押さえて呻いている。焚き火の灰はまだ燻り、吐瀉物と獣脂の臭気が混ざって鼻を刺した。


(……まあ、徴募兵が押し付けられるのは、こういうときだよね)


 ブラン――シエラの手には木桶が抱えられていた。

 すでに水汲みも食器洗いもやらされ、今度は馬の世話を言い渡されたのだ。半ば当然のように。


「おい新顔、馬小屋の掃除もしてこい。あれは若い連中の役目だ」


「了解です」


 淡々と返す。

 むしろ好都合だ、と内心では思っていた。馬の管理は軍の要であり、装備や人員の流れを観察できる絶好の機会だからだ。


 柵の中に入ると、吐息とともに大きな影が動いた。

 白毛に灰を散らした巨馬――アイゼンフーフ。

 ルカイヤ・カーナの愛馬。


 世話のために近づいた兵を、何人も蹴り殺したと恐れられ、戦場では主の動きに合わせ敵兵を踏み潰す獰猛な軍馬。

 その黒曜石のような瞳がこちらを射抜く。胸の奥がひやりとした。


(……大きいな。やっぱり迫力がある)


 緊張の中、シエラは静かに桶を置いた。

 すると、アイゼンフーフは鼻を鳴らし、一歩前に出てきた。


「お、おい! そいつに近づくな!」


 外から様子を見ていた兵が、慌てて声を張り上げる。


「殺されるぞ! 昨日だって、足を折られたやつが――!」


 兵たちが青ざめて制止するのも聞かず、シエラはそっと手を差し出した。


「……頭、撫でていいかい?」


 冗談半分のつもりだった。もちろん返事などあるはずがない。

 だがアイゼンフーフはわずかに首を下げ、額を差し出してきた。


「……え」


 信じられずに一瞬固まったが、恐る恐る手を伸ばす。

 荒い毛並みに触れると、巨馬は目を細めて鼻を鳴らした。


「へへ……いい子だね」


 ブランの姿をしたシエラの口元に、抑えきれない微笑みが浮かんだ。

 その光景を見ていた兵のひとりが、呆然と呟く。


「……嘘だろ。アイゼンフーフが、頭を預けただと……?」


 その声にシエラは慌てて表情を引き締める。

 馬が好きなため、ついやってしまった。あまり目立つのも、今は良くない。


「田舎でも畑用とかの馬がいたんで、荒馬の扱いも慣れたもんなんですよ」


 言い訳を口にして、アイゼンフーフから手を離す。巨馬は「もう撫でないのか」と言いたげに鼻を鳴らし、黒い瞳でシエラを見据える。


 巨馬の吐息が髪を揺らしたとき、背筋を冷たいものが這い上がった。


(……っ、気のせいだ。気づかれてなんて、ない)


 そう思い込みながら桶を下げ、馬小屋の掃除に手をつける。

 堆積した藁と糞を掻き出し、干し草を入れ替える作業は、意外と身体を使う。

 汗が背を伝うころには、周囲の兵も“気の利く新顔だ”と納得したらしく、もう気に留めなくなっていた。


 作業を終えて桶を置いたとき、ふと気づく。

 この馬小屋――本営のごく近くに設けられている。

 兵の天幕よりも明らかに警備が厚く、周囲を囲む柵も二重になっていた。


(……なるほど。主の天幕に隣接してるわけか)


 意識せずとも、視線は自然と本営へ流れる。

 ひときわ大きな天幕。旗竿には血のような赤を基調とした狼の紋がはためいている。


 ――ルカイヤ・カーナの本陣。


 近衛兵が交代で見張り、周囲の雑兵はうかつに近寄らない。

 兵たちにとっては“触れてはならない領域”であり、それゆえ不用意な噂話も聞こえてこなかった。


(……呪具の所在を探る、か)


 シエラは眉間に皺を寄せる。

 任務の本質――“呪われた魔道具”がどこにあるのか、そしてその形状を克明に記録すること。

 だが今のところ、それらしい情報はまったく得られていない。


 兵の誰一人として、その存在に触れていない。

 まるで最初から“なかった”かのように。


(いや……違う。噂にすらならないってことは、あれはずっと同じ場所にある。日常に溶けてしまっているんだ)


 あくまでもそれは、シエラの推論だ。

 ルカイヤは戦場に出てから、常に呪具を“天幕に置き去り”にしている。


(……もし、本人が携帯していたら。この任務は即死級の自殺行為になる)


 背中を汗が伝った。

 だが、退く選択肢はない。


 ――任務を遂行しなければならない。


 桶を抱え直し、再び“ブラン”の顔を纏う。

 徴募兵の青年として、次の雑務を仰せつかるように立ち振る舞いながら、彼女はひそかに目を凝らした。


 本営の天幕。その布の継ぎ目。

 夜になれば、灯りが漏れるはずだ。

 そのときこそ、踏み込む機会――。


(……今はまだ、待つ)


 そう心に刻み、シエラは静かに馬小屋を後にした。


 背後で、アイゼンフーフが耳を動かす。

 それはただの仕草ではなかった。

 まるで“主の気配”を感じ取り、伝えようとするかのように――。


 闇夜の瞳が、去っていくブランの背中を追い続ける。

 静かな朝靄の中で、その眼差しには不思議な確信が宿っていた。


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