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第21話〜《影》、潜り込む

 ――数刻前。


 魔法兵団の野営地に張られた小さな天幕。その中には姿見の鏡と椅子、簡素な卓しかなかった。


 卓の端には、黒鞘の剣と、使い慣れたショートソードが置かれている。

 シエラはしばし迷ったが、やがてその両方を残していくことにした。


(どちらも徴募兵が持てるはずのない武器。携えれば、正体を晒すことになる)


 自分の使い慣れた武器や暗器は、今回の任務では持ち込めない。

 ふぅと諦めの息を吐く。


 気を改め、シエラは鏡の前に立ち、布を胸に幾重にも巻きつけていく。息を詰め、力いっぱい締める。女性の線を潰すその作業は窮屈で不快だったが、必要な偽装だった。


 剣たちと共に卓の上には、カーナ騎士皇国の皇都で受け取った指示書が広げられている。

 そこには追記として、こう綴られていた。


『カーナ騎士皇国兵の制服は、ルシアに準備を頼みました。

 ルシアと合流し、装備を受け取った後に準備を整えてください。』


 諜報組織“影”の総帥、ルーの筆跡。

 その文言を反芻しながら、シエラはルシアから受け取った装備へと手を伸ばす。


 それは徴募兵用の制服だった。粗末な布製のチュニックに革帯、薄い革の当てが肩と腕に付くだけ。胸当てはなく、代わりに剣帯と剣が支給されていた。安物だが、徴募兵にとっては十分なのだろう。


「……流石に大きいな。まあ、好都合だけど」


 袖は余り、肩線は落ち、胴回りもだぶつく。だがその粗末さは女の輪郭を覆い隠す仮面になる。

 淡金の髪を後ろでひとつに束ね、わざと乱れ気味に整える。最後に灰色の兵帽を深くかぶり、鏡の中の自分を見据えた。


 そこに立つのは、もはやシエラではない。

 寄せ集めの新兵、徴募兵の青年――ブランだった。


「……よし。いいか、僕はブラン。辺境の村で生まれた、農家の息子。姓はない。ただのブランだ」


 指先で喉を押し、声音を低く変える。柔らかな声色は消え、やや高めな若者の声が鏡から返ってくる。


「剣の腕はそれなり。魔法はてんでダメ。戦場は初めてで、右も左もわからない……」


 自己暗示のように繰り返す。やがて鏡に映るのは、シエラではなく確かに“ブラン”だった。



 *  *  *



 野営地の外周。角笛一声とともに、歩哨の交代が始まる。

 見張り台の兵士が揃って立ち上がり、別の持ち場へ移動する――そのわずか三十秒ほどの“死角”。


 そこに、水桶を抱えた徴募兵の姿が紛れ込んだ。

 淡金の髪に碧い目をした徴募兵、ブラン――シエラだ。


 腰を落とし、重さに苦労しているふりをしながら桶を運ぶ。汗が首筋を伝う。

 周囲の兵に怪しまれないよう、わざと肩を張って歩き、戦場に不慣れな徴募兵らしさを装う。兵帽を目深にかぶり、視線を決して上げない。


(……よし、通った)


 最初の関門を越え、シエラは無事に野営の内側へ足を踏み入れる。

 そこは戦の夜を彩る、喧騒と焚き火の海だった。

 兵たちは疲労を笑いで誤魔化し、酒を回し、剣を磨き、歌を口ずさむ。

 戦の合間の短い安堵が、あちこちの火影に散らばっていた。


(なるほどね。このタイミングなら、新人徴募兵が雑務を担うのは自然なこと)


 桶を並べ終えると、自然な流れで雑務へと紛れ込む。

 薪割りの手伝い、食器の片付け、煮炊き用の水汲み。徴募兵なら当然回される仕事ばかりだ。


「おい、新顔か? 動きがやけに手際いいな」


「実家が農家なんで。収穫期は一日中、こんなもんですよ」


 軽口を返すと、相手は「なるほどな」と納得し、すぐに別の作業へ向かっていった。

 余計な追及はされない。むしろ“気の利く奴が入った”程度に受け取られている。


(悪くない。うまくやれてる)


 やがて焚き火の輪のひとつに加わることになった。

 火の粉がぱちりと弾け、肉の脂が香ばしく焼ける匂いが鼻をつく。

 隣の兵が下卑た冗談を飛ばし、別の兵は酒で声を潰しながら歌を唄う。


 ブランも笑い声に合わせて笑おうとするが、頬がわずかに引きつる。

 杯を受け取っても、口をつける真似だけで喉を通らない。


(ここに座ってること自体が危ういのに。何やってるんだろ、私)


 焚き火の赤が兵帽の影を揺らし、碧い瞳に焔が映る。

 その視線の奥に潜むのは、任務への緊張と――決して他人に気取られてはならない孤独。


「ブランって言ったな。慣れろよ、戦はまだ続くんだからな」


 同じ火を囲んでいた兵が、笑って声をかける。

 ブランは小さく肩を竦め、杯を掲げて応じた。


「……心得ます」


 焚き火の煙に消えるような、淡々とした声。

 その瞬間だけは、確かに“ただの徴募兵”としてそこにいた。


 だが、背中のどこかに冷たい視線が突き刺さっている気がしてならなかった。

 黒い瞳に射抜かれているような錯覚――それが現実かどうか、シエラにはわからない。


 ただ一つ、言えるのは。

 彼女の潜入は、すでに“血塗れの白狼”の勘に嗅ぎつけられている――ということだった。


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