第1話〜幕間〜《影》、独白する①
正直に言うと、私は性を武器にする女が苦手だ。
いや、あれはあれで有効だ。色香を振りまくことで得られる情報もある。取引もある。命を拾える場面だって実際には多い。
だから他人がやる分には否定しないし、組織の中でそういう任務を担う者もちゃんといる。
でも私は――私はどうしても、そういう手段を取れない。
たまに「色仕掛けでうまく情報抜きそうな顔してる」とか、「男受け良さそうだよな」とか、軽口を叩かれることがある。あれは冗談なのだろうが、正直笑えない。
そういうときは、適当に笑って流す。言い返したりはしない。
でも、ふと思うのだ。
――じゃあ、私が自分の身体で情報を取ってきたら、それで満足か?
ああ、駄目ね。口が悪くなる。
……まあ、要するに私はそういう手合いじゃない、って話。
自分の身体を道具に使うような芸当は、どうやっても無理。
なぜかって? そうね、理由は一つしかない。
あれは――十五のときだった。
* * *
「待って――ッ! やめて、やめて……!」
あのときの自分の悲鳴が、今でも耳の奥にこびりついている。
壁や絨毯に吸い込まれていったはずの声が、何度も、何度も頭の中で反響する。
それなのに――誰も来なかった。
私は組み敷かれて、両腕を押さえつけられていた。
絨毯越しでも伝わる床の冷たさが、背中へじわりと染みてきた。
男の体温と、湿った吐息と、鼻をつく汗の匂いがまとわりついて離れない。
必死に抵抗しても、力では到底敵わなくて、逆に押さえつけが強くなるだけだった。
怖くて、痛くて、悔しくて――
でも、それ以上に、私は悟ってしまった。
……これはもう、最初から決められていたことだったんだって。
シュトルン・アッシュ。
アッシュ伯爵家の次男で、妹アンナの婚約者であり、家庭教師としてこの家に出入りしていた。
父は彼を気に入り、母は彼のために丁寧にお茶を淹れていた。
そして今日。
アンナが遠縁の親族の屋敷へ出かけて不在の日を、彼は選んだ。
最初からそのつもりだった。
それを、誰も止めようとはしなかった。
――伯爵家の申し出を、子爵家が断れるはずがない。
そういうことだったのだ。
私は、この家にとって“差し出すための娘”だった。
何かと引き換えるための駒。
声を上げても、誰も来なかったのは、最初からそう決まっていたから。
この屋敷は、私の悲鳴を聞いたうえで――
ただ黙って、それを呑み込んだ。
……そうだ。
あの家は、そういう場所だった。
ライトメア子爵家は、もともと名門でも、旧家でもない。
ファティマ女王国が戦乱に巻き込まれた折、ひとりの男が戦功を立て、剣一本でのし上がって得た爵位。いわゆる成り上がりの家だ。
戦の才に恵まれた者が多く生まれ、代々、女王国に兵として、騎士として、あるいは魔術師として仕えてきた。
そして、いつからか自然と定まった家訓のようなものがあった。
――ライトメアの長子は、性別にかかわらず国に仕えよ。
――次子は家を継ぎ、その灯を絶やすな。
ただの口約束じゃない。
この家の慣習として、当たり前のように受け継がれていた。
私は、その“長子”だった。
小さな頃から、他の子よりよく観察し、よく考え、そして――よく聞いていた。
話すより、聞くほうが好きだった。剣術の稽古には向かず、魔法も平凡だったけれど、目を凝らせば人の心が、耳を澄ませば裏の意図が、手に取るように伝わってきた。
その資質を見抜いた諜報組織“影”が、私を訓練生として推薦したのは、まだ七歳のとき。
選ばれたことを、私は誇りに思った。
家族もまた、私を誇りに思ってくれていると信じていた。
“影”での訓練は過酷だった。
失敗すれば命を落とす。油断すれば裏切られる。
眠る間も、食べる間も惜しみ、ただ生き残る術を身につける日々。
子供らしい遊びも、年頃の少女としての時間もなかった。
一手の読み違いが命取りになる世界に、私は放り込まれた。
剣も、魔法も、凡庸な才能しかなかったけれど――努力で補った。
感情を抑え、殺し、他者の顔色を読む技術を覚えた。
気配を消し、嘘をつき、自分という存在を仮面で塗り潰すことを教え込まれた。
……それでも、家に帰れば。
父は「よくやっている」と私の頭を撫でてくれた。
母は私の好きなお菓子を用意してくれた。
妹のアンナは、変わらず無邪気に腕へ飛びついてきた。
何年かして――
私が“影”の訓練課程を終え、本任務に就くようになった、十五歳の頃のことだ。
その年、アンナの婚約が決まった。
任務に追われて、家に戻れる回数は決して多くない。
それでも、家族は変わらず迎えてくれた。
父と母が笑っていて、アンナが無邪気に腕へ飛びついてくる。
――ああ、なんだかんだ言って、私の居場所はまだここにあるんだ。そう思っていた。
紹介されたのは、アンナの婚約者。
シュトルン・アッシュ。
侯爵家の次男で、アンナの家庭教師を務めているという青年だった。
知的で、穏やかで、おしゃべりが上手くて。
誰にでも礼儀正しく、話していると自然と笑顔になれるような空気をまとっていた。
彼の隣にいるアンナは、いつもよりも少し大人びた顔で、でも嬉しそうに笑っていた。
――正直に言って、お似合いだと思った。
「侯爵家」と聞いたとき、父の意図はすぐに察した。
成り上がりのライトメア家が貴族社会に根を張るには、上流との繋がりが必要だった。
この婚約もまた、家のための駒としての選択肢のひとつ。
けれど、それを差し引いても――アンナの瞳に映る彼は、きっと特別な人だったのだろう。
だから、心から祝福した。
私は“影”の者だ。結婚も、家を継ぐことも、望まれる立場にはない。
だからこそ、アンナには幸せになってほしかった。
この家で唯一、無垢に笑っていられる存在として――どうか、護られた未来を歩んでほしいと、願っていた。
……そう、願っていたのに。
その穏やかな日常は――長くは続かなかった。