第10話〜《影》、うんざりする
朝の光が細く差し込む廊下を、ふらふらとした足取りの男が歩いていた。
旅装のフードはすでに外され、顔は俯きがちで影に隠れている。だが、肩がわずかに震えているのが見て取れた。
宿の二階、割り当てられた一室の前に辿り着くと、男――ブランは無言で扉を押し開けた。
中は昨夜のまま、質素なベッドと机があるだけの殺風景な空間。
ベッド脇まで進んだところで、ブランはぴたりと足を止めた。
数拍の沈黙――そして。
「……あれって、この前会ったカーマじゃん!」
突如、甲高い声が部屋に跳ねた。
次の瞬間、男の肩から力が抜け、頭を抱えたその姿はもう“ブラン”ではなかった。
「カーマって、カルマ・カーナ皇女じゃん! 皇女がお忍びで城下に出てきて、気さくに声かけてくるとか、誰が予想できるわけ!? ねぇ!?」
素顔を覗かせたのは、ブランの仮面を被っていた女――シエラ。
額を押さえたまま、部屋の中を小さくぐるぐると歩き回る。
カルマ・カーナの顔など知らなかった。
観察対象はあくまで皇子ルカイヤで、その妹は優先度が低い。……いや正直、ルカイヤの異常性が強烈すぎて、他を気にする余裕などなかった。
行軍の最前列にいたルカイヤを思い返す。
群衆に紛れたとはいえ、あの距離は無謀だったと、今になって冷や汗がにじむ。
「あのルカイヤに気づかれなかったのは……奇跡」
声に出しても、胸のざわつきは収まらない。
たぶん気づかれていない。……きっと。いや、たぶん。
こちらを一瞥すらしなかったんだ、大丈夫。……多分。
深く息を吐き、腰に据えた黒鞘の剣を睨みつける。
「……あんた、本当に何もしてない?」
問いかけても、当然返事はない。
だが――なぜか漂う、妙に得意げな気配。
「やっぱりあんたのせいかーーーーっ!」
怒鳴るや否や、剣帯ごと黒鞘の剣を引き剥がし、そのままベッドに叩きつけた。
ぼふん、と鈍く沈む寝具。しばらく、荒い呼吸だけが部屋を満たした。
――コツコツ。
突然、窓を叩く音が響く。
シエラの肩がびくりと跳ねた。
窓辺には、黒羽の鳥がとまり、嘴でガラスを叩いている。足には小さな筒状の手紙。
ルーからの新たな指令だ。
「あぁ……はいはい、新しいお仕事ですね。どうぞどうぞ。不幸体質な私に、ルー様は次はどんな過酷なお仕事をくださったのかなあ」
やけ気味な独り言をこぼしながら窓を開ける。鳥は慣れた様子で室内へ滑り込み、羽を軽く震わせた。
手紙を外し、封を切る。うんざりした表情のまま、目が文字を追う。
『カーナ騎士皇国皇子、ルカイヤ・カーナが呪われた魔道具を所有していると確証が取れました。
君には、カーナ騎士皇国兵として潜入し、件の魔道具の正確な在処、また魔道具の形状を克明に調査及び報告をしてほしい。
魔道具自体に触れるのは禁じます。どのような性質の“呪い”を持つのか、それは形状が判明した後にこちらで調べます。
危険な任務です。危ないと君が判断したら退くことも許可します。くれぐれも気をつけて。』
それは、私信のような指示書だった。
いつもの悪ふざけはなく、それが余計にこの任務の危険さを物語っているようだった。
「……ルシア様。もしかして、やってくれましたね」
シエラは深く息を吐いた。
おそらく皇居でルカイヤと接触した際、ルシアが探りを入れ、確信を得たのだろう。
だが、それはルカイヤの警戒心を跳ね上げさせるには十分すぎる。
この状況で近づくのは――蛇の巣に素足で入るようなものだ。
「ルシア様。その探りの入れ方で、私がどれだけ動きにくくなるか、分かってます?」
その場にいないルシアへ、シエラは思わず語りかける。
今回の行軍を見るに、徴募兵も多い。変装して混じること自体は難しくない。
だが、鉢合わせる確率は高い。もし目が合えば――。
(……どうする)
ルカイヤの獣じみた感覚は、ただの一兵卒を装うには危険すぎる。
ヘマをすれば、正体が露見して殺される。それだけは間違いない。
シエラは両頬を叩いた。
ぱん、と乾いた音が室内に響く。
「よし、しっかりしろシエラ」
碧い瞳に宿るのは、不安よりも強い意志。
これは“影”としての任務。自分がやらねばならない仕事。
「危なくなったら退く。大丈夫、できる。……いや、やるしかない」
小さく吐き出した言葉が、自然と静けさに消えた。
シエラは新たな決意とともに、指示書を丁寧に折りたたんだ。




