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第8話〜《白狼》、妹に苛立つ

 夕刻。赤と群青に染まった空が、皇居の高楼からよく見えた。


 ルカイヤは執務室の窓辺に立ち、下から駆けてくる騎士の足音に眉をひそめた。報告は簡潔だった。


 ――第二騎士団長カルマ・カーナ皇女殿下が、午後より皇居を離れ、夕刻まで帰還していない。


 命令も届け出もない、完全な私的外出。


 軍紀に厳しいルカイヤの目には、それだけで一つの裏切りに等しかった。


 扉が開かれ、部下の報せに続いて、カルマが現れた。汗はなく、甲冑も脱いでいたが、その瞳の奥には芯を保っていた。


「……何をしていた?」


 兄の問いは、低く、短い。


 妹は、その問いに即答しなかった。扉を閉め、自ら兄と対面する場所まで歩み寄る。沈黙が室内を満たす。


「空を見ていました」


「……は?」


「疲れていたのです。人と戦い、命を奪う日々に。たまには空を見たくなります。それだけです」


 その言葉に、ルカイヤの眉がぴくりと動いた。


「私的感情で軍を抜けるか? 子供の遠足か?」


「軍は連れ出していません。私一人で出ました。責任も、私一人が取ります」


 静かだが、明確な口調。ルカイヤの中で何かが微かに軋んだ。


「……で、どこに行った?」


「郊外の小高い丘。かつて皇妃殿下が、お好きだったと――あなたが昔、教えてくれた場所です」


 その言葉に、ルカイヤの背が僅かに強張った。


「……覚えていたのか」


「はい。母上の顔も声も覚えていません。けれど、兄上が話してくださったことだけは、忘れていません」


 風が窓の外を渡り、二人の間に沈黙を滑り込ませた。ルカイヤは、拳を握ったまま目を伏せた。


 あの丘には、彼と母だけの記憶があった。誰にも触れさせたくない、記憶の聖域。

 けれど、妹はそこに足を運び、今なおそれを「母の好きだった場所」と言った。


 憎くなかった。だが、苛立った。


 母を知らぬカルマに、自分の記憶の断片でしか母を見られぬ妹に――なぜ、そこまでして母に触れようとするのか、と。


「一人で行ったのか」


「……いえ」


 ルカイヤが顔を上げる。カルマはわずかに視線を落とした。


「ブランと名乗る旅人が、偶然いました。彼とほんの少し、会話を交わしただけです」


「……ブラン?」


 ルカイヤの眉が訝しげに、わずかに寄る。


「素性は?」


「わかりません。剣の心得はあるようでしたが、こちらに害意はなく、無礼もなかった。話したのは――空のことや、風のことだけです」


「……ブラン、か」


 ルカイヤはその名を口の中で転がすように繰り返しながら、ゆっくりと執務机の前へ戻る。

 視線を窓から外し、書類の山の上に置かれた軍務報告に手を伸ばしたが、指は紙の端に触れただけで止まった。


「……貴様は、人と関わりすぎる」


 ぼそりと漏れた声に、カルマの眉がかすかに動く。


「その旅人は無害だったと、貴様は言った。だが、もしも相手が間者だったのなら? 貴様が皇女であると、第二騎士団長であると見抜かれ、命を狙われていたとしたら?」


「その場合は、私の判断ミスです。罰は――」


「俺が下す。それが軍の規律だ」


 机の縁に手を置いたまま、ルカイヤは低く言い切った。


「貴様ひとりの軽率な行動が、一国の戦略を揺るがすのだ。……貴様の一挙手一投足には、それだけの意味があると、まだ理解できていないのか」


 カルマは、何も言わなかった。


 彼の言葉は、確かに正しい。それは幾度も兄の下で学び、実戦で刻み込まれてきた事実だった。


 だがそれでも、自分の中に澱のように沈んだ疲労と、息の詰まるような日常に、今日だけは抗いたかった。理由など、言葉にできるものではない。


「――私は、ただ、空が見たかっただけです」


 ぽつりとこぼしたその言葉に、ルカイヤはわずかに眉をひそめた。


「空が見たければ、塔の上から見ればいい。理由にならん」


「……ええ。でも、あの丘でなければ、見えない空もあるのです」


 ルカイヤは、短く息をついた。


 わかっているのだ。こいつは感情で動く。理屈で縛っても、押さえ込めば押さえ込むほど、その奥にあるものが爆ぜる。


 カルマの中にある“何か”――

 どこか自分とは違う、決して交わらない芯のようなものが、年々強くなっている気がしていた。


「そのブランとかいう男。二度と関わるな」


 命令とも忠告ともつかぬ口調に、カルマの目がかすかに揺れた。


「……理由を聞いても?」


「不確定要素を排除する。それが軍務の基本だ」


「……承知しました」


 静かな声。従順に見せかけて、内側では何かが反発しているのを、ルカイヤは見抜いていた。


「母の記憶を辿るのは、貴様の勝手だ。だが、個人的な感傷で動くなら、剣を置いてからにしろ」


 カルマは返事をしなかった。


 沈黙が部屋を包む。残光に照らされて、執務室の床に長い影が伸びていた。


 ――それは、兄妹の間にある深い溝を象徴しているようだった。


「今日の件は、私情と見なして不問とする」


 ルカイヤがそう言うと、カルマはかすかに目を見開いた。


「だが、次はない」


 兄は振り返り、鋭く妹を見据える。その目には、容赦も情もなかった。


「次に私情で軍規を破れば――処分する。俺は貴様を守らん。貴様が“カーナの騎士”である限り、それは避けられない」


 カルマはまっすぐにその視線を受け止めた。

 目を逸らさず、唇をかすかに引き結び、ただ一言だけ返す。


「……了解しました」


 その声に怒気も悲哀もなかった。ただ、静かな決意だけが宿っていた。


 ルカイヤはそれを聞いて、黙って視線を戻した。


 そして、次の報告書へと手を伸ばす。まるで先ほどまでの会話は、軍務の一つに過ぎなかったかのように。


 カルマは一礼し、音を立てぬように扉を開けて出ていった。


 廊下に出て、静かに息をつく。


(……やっぱり、話すべきじゃなかった)


 丘で出会った旅人――ブランとの穏やかな時間。あの小さな交流は、確かに今の自分を少しだけ楽にしてくれた。


 だが、それは“騎士”としての自分には許されないことだったのだ。


(本当は、もう少し……話したかった)


 心の奥で、そう思う自分を、カルマはそっと抑え込む。


 風が廊下の窓から吹き込み、外の空が茜から宵へと色を変えていく。


 窓の外、空はもう夜の色を帯びていた。


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