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第3話〜《影》、紙一枚で地獄行き

 午前中の光が、石畳を柔らかく照らしていた。


 シエラはいつになく気の抜けた足取りで、町の小路を歩いていた。

 任務の報告は昨日、無事に済んだ。次の指示が届くまでは、何をしてもいい――空白の時間だ。


(さてと……何しようかな)


 通りのあちこちに立つ兵の姿が目に入る。

 配置、人数、視線の向き。何気なく観察しているつもりでも、脳裏にはすでに数本の逃走経路が描かれていた。


(……うん。職業病)


 小さく嘆息して、肩をすくめる。


 今この瞬間だけは、自由の身。

 誰にも命令されず、誰の影も追わなくていい。

 殺伐とした世界の存在を誰も知らないかのように、この町には穏やかな空気が満ちていた。


 ……そんな思考をふわりと断ち切るように、鼻先を甘い香りがかすめた。


(……これは……バター、蜂蜜、焼いた小麦粉の匂い)


 通りの角、小さな焼き菓子の店があった。


 窓際には焼きたてのスコーンが並び、ほかほかと湯気を立てている。

 棚の奥では、若い娘がミトン越しにパイ皿を取り出すところだった。


「わあ……おいしそう」


 ぽつりと漏れた声に、自分で小さく吹き出す。

 甘いものは、好き。任務の合間にこっそり口にする程度だが、それだけは自分でも認める女の子らしさかもしれなかった。


(でも……一人で入るの、変、かしらね)


 誰に問うでもなく、店先で立ち止まる。


 開け放たれた扉の向こうでは、子供を連れた親子が笑いながら焼き菓子を選んでいる。

 店前のテラス席では、若い男が恋人らしき女性の手を取り、椅子を引いてやっていた。


(こういう店……似合わないのよね、私)


 ふと、自分の格好に目を落とす。

 男物のシャツにズボン、機能性重視の外套。腰には二本の剣。まるで旅の傭兵だ。


 すっと伸びた手足に、自然と目線が人より高くなる体格。

 街を歩いていても見上げられることのほうが多く、いつのまにか女性らしさとは縁遠くなってしまった気がしていた。


(まあ、似合わないのは確かだけど)


 だが、彼女は気づいていない。すれ違う男たちが、その横顔に見惚れていることを。


 整った顔立ちに、淡く燻んだ色の金髪。碧い目。

 鋭さと気品が同居したその雰囲気は、この町ではむしろ異質なほど目を引いていた。

 決して、店に似合わないなんてことはない――


(……ちょっとだけ、覗くだけなら)


 足が、半歩だけ前へ進みかけた。


 ――そのときだった。


 耳元に、風を裂く羽ばたきが届く。


「……!」


 反射よりも速く、シエラの身体が反応する。

 視線を上げるよりも先に、彼女の姿は通りを外れ、路地裏へと滑り込んでいた。


「来たわね」


 空を見上げたシエラの肩に、目つきの悪い黒羽の鳥が音もなく舞い降りた。くちばしでつまんでいた封筒を、無造作に彼女の手に落とす。


 ひと目見た瞬間、シエラは眉を寄せる。


「……この紙、色が違う」


 差出人の印――見慣れた紋章が、封の中央に刻まれていた。


「……ルー様からってことは、『はい、次のお仕事ですよ』ってやつね」


 軽く封を切って、目を通す。文字を見た瞬間、顔が引きつった。


 ――『大変よくできました。ハナマルをあげましょう』


(ハナマルって……)


 皮肉たっぷりの労いのあとに続いていたのは、肝心の新しい任務。


『カーナ騎士皇国皇子ルカイヤ・カーナが、呪われた魔道具を持ち出した疑いあり。接触せず、状態を観察せよ。以上』


『呪いの魔道具関連はシエラが最適任です。任せましたよ。』


 ……という、無責任極まりない一文まで添えられていた。


「……ねえルー様、どこが“最適任”なんですか。私がどれだけ“呪い”って単語を嫌ってるか、知ってますよね?」


 思わず、手紙に向かって話しかけてしまう。


「最適任って、あれでしょ? ただひとり、“呪われてても黙って働くバカがここにいます”って意味でしょ? 私のことですね? そうですね?」


 紙を握り潰してぶんぶん振ると、鳥が「ご苦労さま」とでも言いたげに一声鳴いて、どこかへ飛び去っていった。置いていかれたシエラは、紙を睨みながら足元を蹴る。


「……はいはい。ありがとね。あんたはお仕事終わっていいよ」


 ひとり残された彼女は、文を握りしめたまま、ぐっと顔をしかめる。


(……よりにもよって、あの男)


 名前くらいは聞いたことがある。いや、名前どころか、噂も、逸話も、血塗れの伝説も――すべてが“悪名”として、彼女の知識に刻まれていた。


 戦場に立てば誰よりも前に出て、誰よりも多くの命を奪う。捕虜を取らず、女子供すら容赦しない。敵地に乗り込めば、町ごと焼き払い、笑いながら血の海を進む。


 人ではなく、獣。

 “血塗れの白狼”。


 その瞳に宿るのは、憎悪か、それとも快楽か。


(……そんな相手を、“観察するだけ”だから、って?)


 口元が歪む。肩をすくめ、文句をこぼした。


「ルー様、私のこと嫌いですか? “血塗れの白狼”の監視なんて、どう考えてもいじめでしょ……」


 紙に向かって愚痴をぶつけながら、なおも止まらぬぼやきの嵐。


「“遠くから見てろ”って、そんな……遠くからでも目が合ったら心臓止まりそうなんですけど……」


 影の者にとって、“見止められたら失格”――それが原則だ。

 その原則を守れるかどうかも怪しい相手に対して、である。


「せめて……こう、初心者向けの任務ってなかったんですか? お菓子の配達とか、猫探しとか……密談の盗み聞きでもいいのに……」


 ぶつぶつ言いながらも、封筒を丁寧にたたみ、懐にしまう。どれだけ不本意でも、任務は任務。逃げられない。


 ため息はすでに三度目。


「……接触しなきゃいいんでしょ。見て、確認して、報告。それで終わり。大丈夫、たぶん、きっと……運が良ければ」


 自分に言い聞かせるように、なるべく明るく――あくまでそれっぽく楽観を装う。


 この厄介極まりない任務が、彼女の運命を大きく変えることになるとは。

 ――このときのシエラは、まだ知る由もなかった。


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