第5話〜《白狼》、迎賓する
ルカイヤは軍議室の椅子に腰掛けたまま、静かに肘掛けを指で叩いていた。
静かに、だがその動作には不機嫌が滲んでいる。
周囲に並ぶ将官たちは誰も言葉を発せず、ただ重苦しい空気の中で息を詰めていた。
彼の苛立ちは、怒号よりも沈黙が遥かに恐ろしい――それをよく知っているからだ。
ただ一人、彼のすぐ左に控える女騎士。白銀の髪を高く結い上げ、凛とした佇まいを崩さない若き戦姫、カルマ・カーナのみが、その場に立ちながら微動だにしなかった。
場に満ちる張り詰めた気配など、兄の苛立ちなど、すべて織り込み済みとでも言うように。
ルカイヤは黙していたが、胸中ではすでに何度も毒づいていた。
(……この俺を、戦場から呼び戻すとはな)
季節は秋。戦に最適な季節だ。乾いた気候、豊富な補給。
あのまま前線にとどまっていれば、あと十日もあれば敵の砦を落とせていた。
だが、その矢先に届いた通達が、すべてを台無しにした。
『ファティマ女王国より使節団を受け入れることとなった。
魔術師の一部隊が派遣される。その指揮に、ルシア・ギルシア公爵令嬢が就任する。
よって、皇子殿下と皇女殿下は即刻帰還されたい』
――命令にしては、回りくどい。
要は、「出迎えにあたれ」ということだ。
「外交上、失礼のないように」と。
「カーナ騎士皇国の顔として、ふさわしい態度を取れ」と。
(戯言を……)
彼はその場で通達の紙を破り捨てた。副官が蒼白になって拾おうとしたが、ルカイヤはそれを無視して怒声を吐いた。
だが結局、命には逆らえない。
皇家の血を引こうと、今の彼に“皇子”以上の権限はない。
だからこそ彼は、信頼に足る者へ戦線の指揮を託し、妹カルマを伴って、皇都フォルゼンへと戻った。
(くだらん……)
あの女のために、なぜこの俺が手を止めねばならぬのか。
ルシア・ギルシア。
この女を、ルカイヤは心底、嫌悪していた。
カーナ皇家の傍流を名乗りつつ、ファティマ女王国の“手”として暗躍する女。
戦場に魔術師を入れることには反対ではない。
むしろ、使える駒はなんであれ歓迎すべきだ。だが、彼女は例外だった。
ルシアは、何もかも“知っている顔”をしている。
人の感情も、過去も、見透かして笑うあの態度が――どうにも我慢ならない。
しかも今回は、“使節”と称しながら、真の目的は語られていない。
表向きは協力――だが、“ギルシア”の名が動くとき、そこには必ず裏がある。
(……何を企んでいる?)
彼の指が肘掛けを打つ音が、わずかに強まった。
怒りだけではない。どこか、言葉にできぬ不快な“気配”が背後にまとわりついているような感覚があった。
未だ姿を見せぬ影のような違和感――その正体は、まだ掴めていない。
そのとき、扉が静かに開いた。
重厚な木の軋みが、場の空気をわずかに震わせた。
高官たちが反射的に背筋を伸ばす。
ルカイヤもまた顔を上げ、目を細めた。
入ってきたのは、一人の女。
大地の色を思わせる法衣。胸元にはファティマ女王国の紋章。
銀灰の髪が流れ、白磁のような肌に、微笑を浮かべるその姿は、異質なほどに優雅だった。
「……ご機嫌よう、ルカイヤ皇子殿下、カルマ皇女殿下。ずいぶんと殺気立った歓迎ね。嬉しいわ」
そう言って彼女は、卓へと迷いなく歩を進める。
口上もなければ、頭を下げる様子もない。
まるでここが自分の居場所であるかのように。
「ギルシアの犬が吠えに来たか。誰の許しでここに入った」
その言葉は挑発というより、唸るような本音だった。
苛立ちの奥に、警戒に近い感情が滲んでいる。恐れとは認めぬまでも――無視できない直感があった。
(この女がここにいる……必ず、何か意味がある)
「友軍の責任者として、皇王陛下の勅命を受けて参りました。我が女王陛下の信任も頂いております。――正規の使節として、ね」
彼女が言葉巧みに語る“友軍の責任者”としての権利も、建前に過ぎない。明らかに“監視”を目的とした、押し付けられた“賓客”だ。
ルカイヤの眼が細まる。
その背後で、カルマが一歩、前へ出た。
「兄上。ファティマ女王国とは友好関係にあります。……一応は、我が軍にとっての味方です」
「“一応”な」
ルカイヤは鼻で笑い、椅子に背を預けた。
「魔術師を率いたところで、戦はできん。貴様らは戦場で血を流す覚悟などないだろう」
「必要なのは、無駄に血を流させぬ“知恵”ですけれどね」
ルシアはあくまで優雅に、毒を含ませた声で笑った。
「あなたの剣が百人を倒すとしても、我らの魔法は千人を滅ぼすことも、千人を救うこともできる。……とくに“呪われた魔道具”を抱える貴国においては、その意味がよく分かっているのではなくて?」
軍議室の空気が一段階、冷え込む。
ルカイヤは笑わなかった。ただ、目の奥にわずかな色が差す。
(……嗅ぎつけている)
彼女の真の目的――その片鱗が、言葉の端々に現れていた。
カーナ騎士皇国が密かに所有していた“呪われた魔道具”。それは確かに今、ルカイヤの手の内にある。
「……どこまで知っている?」
問う声は低く、刃のように鋭い。
「それは秘密。女には秘密が必要ですから」
その挑発に、ルカイヤは苦い舌打ちを漏らした。
忌々しいと思う。だけれど、反面では――
(おもしろい……)
万の敵を屠る力を持つと言われる、あの“呪い”。
だがそれは、厄災と破滅をも呼ぶものでもある。
もし、それを奪うつもりなら――
(奪ってみろ。……乗ってやる)
そんな獰猛な思いが胸に宿る。
「確かに、“呪われた魔道具”は俺が所持している。だが貴様らの監視など必要ない」
明確な宣言に、ルシアの眉がかすかに動く。
おそらく、確証はなかったのだ。今の一言で、それが確信に変わった。
「友軍として来たというのなら、任だけ果たせ。ただし、貴様らの隊が敵地で孤立しようと、俺は見捨てる。勝手にやれ」
「ご安心を。我が部隊は“指示待ち”などいたしません。必要とあらば――自ら動きます。あなたの“観察”も含めて、ね」
その言葉の端に、ルカイヤは違和感を覚えた。
サディア領内の戦地で感じた、あの奇妙な気配。まさか――
「……貴様、“影”を動かしているな」
「さて、どうでしょう。先ほども言いましたが、女には秘密が多いものなのですよ」
ルシアは微笑んだまま、一歩も引かない。
「戦場であなたが背中を向けた瞬間に、後ろから刺されないよう、せいぜいお気をつけくださいな」
その瞬間、ルカイヤの手が剣の柄へと伸びかけた。
――が、すっと差し出された細い手が、その動きを制す。
カルマだった。
「……兄上、やめてください。ここで剣を抜かれるおつもりですか」
その横顔には、わずかな疲労が滲んでいる。
「ギルシア公爵家の者と口をきくときは、深呼吸を三回。……父上からも、そう習ったはずです」
「……チッ」
舌打ちし、ルカイヤは荒々しく椅子に背を投げかける。
「父親譲りの皮肉ばかり喋りおって……」
「気に障ったのなら、黙ります。そういう性格なものですから」
兄妹のやり取りに、ルシアは「まあ」と目を細めた。
「本当に素敵なご家族。こんなところにまで“カルラの血”が流れているなんて」
「……私の血は、私のものでしかありません」
カルマは言い捨てると踵を返す。
「ルシア様、どうぞこちらへ。兄は気分が優れないようなので、別室で私がお相手します」
「あら、カルマ皇女殿下がお相手してくださるのね。光栄だわ」
ルカイヤから遠ざけるための意図を察しながらも、ルシアは快く頷いた。
カルマは最後に一つ、兄へと視線を向ける。
「……兄上はしばらく、空でも見ていてください」
そう言い残し、彼女はルシアを伴って去っていった。
残されたルカイヤは、眉間に刻まれた怒りを隠すことなく、無言のままその背を睨みつけていた。




