第3話〜《影》、真実に触れる
カーナ騎士皇国は、歴史ある軍事国家である。
ファティマ女王国と並ぶほどの長い時を繁栄のうちに過ごし、戦を糧として育まれてきたこの国は、皇王を頂点に多くの優秀な騎士と兵を有していた。
他国で戦が起これば騎士団を派遣し、自国が襲われれば、騎士たちは剣を掲げて祖国を守る。血で血を洗う戦場の論理こそが、この国の礎であり、誇りでもあった。
そんなカーナ騎士皇国には、公に語られることのない、ひとつの事件がある。
二十年前、皇妃が保養地へ向かう道中、護衛もろとも襲撃された――と伝えられる出来事。
公的な記録では、襲撃者は隣国サディア連邦国に雇われた傭兵たちであり、その皇妃は非業の死を遂げた……とされている。
しかし、真実は違った。
当時、サディア連邦国とカーナ騎士皇国は一時的な休戦状態にあった。長らく続いた戦の疲弊が、ようやく国に静けさをもたらしつつあった頃――
だが、それを面白く思わなかった者たちがいた。
戦争によって私腹を肥やしてきた貴族たち。武器を売り、兵を差し出し、血を対価に金を得ていた彼らは、平穏を「損失」と見なした。
皇妃が療養のために地方へ赴くと聞きつけた彼らは、サディア連邦国の傭兵を買収し、皇妃一行の襲撃を指示したのだ。
本来ならば即座に殺害されるはずだった。
だが、皇妃の美貌に目を奪われた傭兵たちは、欲望のままに行動を変えた。
皇妃は捕らえられ、監禁されることとなった。
そして、そのとき皇妃と共にいたのが、幼いルカイヤ皇子だった。
当時わずか九歳。
彼もまた、身代金目的で共に連れ去られた。
そして、皇妃に手を出そうとした男たちに、幼い身体で立ち向かった――母を守ろうとしたのだ。
だが、あまりに無力だった。
返って男たちに暴力を受け、血を流し、倒れ伏した。
息子を守ろうとした皇妃は、その場で身を差し出した。
ルカイヤの目前で、母は辱めを受け続け、そしてついには、命を落とした。
母の死、無力さ、地に堕ちた尊厳。
あのとき、幼き皇子は、ただの子供ではなくなった。
のちに居所が判明し、駆けつけた騎士たちによって保護された皇子は、深く沈黙し、長いあいだ誰とも口をきかなかったという。
これが、“皇妃暗殺事件”の真相だった。
* * *
馬車の窓の外、秋風に色づいた葉が舞う。
乾いた地面に、時折、細かな砂埃が立ちのぼる。
秋の陽光はやわらかく、だがその穏やかさとは裏腹に、車内に落ちる空気は重かった。
「……そういう事件が、あったのよ」
そう締めくくったルシアの横顔は、いつになく真剣だった。
静かな沈黙のあと、シエラは小さく息を吐いた。
「……その話、私も、彼に関する資料を読んだ時に……目を通しました」
声は掠れていた。馬車の揺れに揺らぎながら、それでも確かに届くように。
まだ、ルカイヤ観察の任務が正式に言い渡される前。
要注意人物のひとりとして名を連ねていたその男――カーナ騎士皇国皇子、ルカイヤ・カーナ。
当時は、酷薄さが特筆された人物として記憶に留めただけで、深く読み込むこともなかった。
だが今、ルシアの口から語られたことで、忘れかけていた記述が静かに思い出されてくる。
「……まさか、関わることになるなんて思っていませんでした。ただの記録として、流し読みして……でも今は、全部がつながって見える気がします」
「そうでしょうね」
ルシアはそう言って、視線をそらした。
「だから彼は、サディア連邦国を心底憎んでいるのですね。……母の命だけでは飽き足らず、母の尊厳すら奪った“敵”として」
「ええ。そして彼にとって戦争は“復讐”でもあるのよ。……ただの外交や戦略とは違う。もっと、ずっと、個人的なもの」
ルシアの声音は、どこか遠い過去を懐かしむようでもあり、そして、切実でもあった。
彼女にとってルカイヤは、血のつながりはなくとも、親族と称するには十分な縁がある。
その胸中には、決して公には見せない、複雑な感情が潜んでいるのだろう。
「……で、どうしてその話を、今のタイミングで私に?」
シエラの問いには、さりげない警戒がにじんでいた。
ルシアは、ふっと小さく笑った。
「場を重くしたくて話したわけじゃないわよ。……これは、今後あなたが任されるであろう任務の“前情報”」
ああ、と喉の奥から小さく息が漏れる。
シエラの脳裏に、飄々としたルーの顔が浮かんだ。
近いうちにまた連絡鳥が飛ばされ、「君にしかできない任務です、頼みましたよ」と、命じられる未来が来る――それを予感させる話だった。
シエラは露骨に顔をしかめる。
その様子に、ルシアは肩をすくめるように笑った。
「また、ルカイヤ皇子の観察任務ですか……」
「お父様は、あなたが“呪い”に関わる人だから指名したんでしょう。ルカイヤ皇子の周囲で、なにか異変がある可能性を考えて。
……もちろん、危険な任務よ。でも、逃げるのも隠れるのも得意なあなたなら、最適任だと私は思うわ」
諜報員たる評価としては素直に受け取ってもよい言葉なのに、シエラの反応は渋かった。
「……その“最適任”の評価は、命がいくつあっても足りません」
「本当にね。でも――」
そこで、ルシアの声がわずかに陰を帯びる。
「……でもね、シエラ。私が本当に心配してるのは、“捕まったとき”のこと」
言葉が、ぴたりと空気を凍らせた。
「彼は、あの事件以来、歪んでしまった。女を……特に、“性を武器にする女”を心から憎むようになった。地位に媚びて寄ってくる女たちを、ことごとく拒絶してきた」
ルシアの声音が、さらに低くなる。
「それでも、男としての衝動はあるのよ。時折、女をあてがわれることもある。
でもね……彼は、そのすべてを壊してしまう。心も、身体も。命が助かっても、人としてはもう、戻れないほどに」
重く、苦い沈黙。
シエラの胸の奥が、かすかに疼いた。
(……笑えない)
想像するだけで、背筋に冷たいものが走る。
自分は売らない。
あの日、固く誓った言葉が喉元にせり上がる。
「……ルー様は、“呪い”がどうこうよりも、私がそういう手段で逃げない人間だと……そう思ってくださってるんですね」
「ええ。あなたは、そういうところが強い」
ルシアはあたたかく微笑んだ。
「もし万が一があっても、あなたなら上手く切り抜けられる。私は、そう信じてる。でも――くれぐれも、気をつけて」
シエラは、ふうと息を吐いた。
緊張でも、諦めでもない。ただ、笑えない現実を呑み込むような息だった。
「……情報共有、ありがとうございます。肝に銘じておきます」
その声は、いつもより低く響いていた。




