第19話〜《影》、新たな旅立ち
夜が明けて間もない頃だった。
宿の裏手にある厩舎で、シエラは静かに旅の準備を整えていた。
鞍を締め、革紐のゆるみを確かめ、馬の額をやさしく撫でる。どの所作も手慣れたものだった。
昨夜届いた“影”の連絡鳥は、任務の指令というよりも、ルー個人の筆致が滲んだ私信に近い内容だった。
『カーナ騎士皇国へルシアが向かいました。魔法兵団の一部を連れた、表向きは使節という名目の友軍派遣です。
指定場所にて合流し、皇都までの道中ルシアの護衛役を頼みます。』
『追伸。
カーナ騎士皇国の皇居へ君は近づきすぎないこと。
君への割り振りを考えている任務に支障をきたすので、皇族との接触は禁止、ダメ絶対!』
――さらりと書かれた「ダメ絶対!」の五文字に、シエラは思わず顔を引き攣らせた。
しかも文末には、笑った顔の小さな絵まで添えられていた。
ルー様のこういうところ、ほんとずるい。
「……はぁ……」
思わず頭を抱える。胃の奥が、じわじわと痛んでくる。
(……皇族、ね)
思い当たる人物が、ひとりいた。
思い返すたび、息を呑むような、深く刻まれた記憶。
(鉢合わせるなって言われて、そう簡単に避けられる相手なら良かったんだけど)
そう思って顔をしかめたそのときだった。
草を踏む、小さな足音が近づいてくる。
振り向けば、子どもたちの姿があった。
マルタが先頭で、その後ろにユリオ。エイダに抱かれたニコは、まだ眠たげにシエラを見つめている。ほわんとした表情で、シエラに小さな手を伸ばした。
「しえら……だっこ……」
「……ん。おはよう、ニコ」
そっと腕を伸ばしてエイダから抱き取り、ニコをやさしく胸元に抱き寄せる。
小さな体が彼女の肩にすがりつき、そっと顔を埋めた。
「しえら、いっちゃやだ……いっちゃやだぁ……」
――その声に、胸の奥が締めつけられる。
「……うん。ごめんね。でも、行かなくちゃいけないの」
「にこ……いいこにするから……おしごと、おやすみして……」
かすれた声の願いに、シエラはゆっくりと首を横に振った。
「できることなら、そうしたいけどね」
そっと頬を寄せ、低く、やさしい声で言う。
言葉を選びながら、ニコの背中をやさしく撫でた。
「でもね、ニコが元気になったから、私はまた頑張れるの。……だから、ありがとう」
ニコは、小さく「うん」と喉の奥で返事をしたが、それでもシエラの肩から顔を離さなかった。
ユリオが、ぽつりと訊く。
「いつ、戻ってくるの?」
「ちょっとだけ遠いところに行くから……少し時間はかかるかもしれない。けど、絶対に戻ってくる。約束する」
マルタが、小さな手で何かを差し出した。
「これ。……おまもり」
手作りの布袋。中には、乾かした花びらと、薄く削った香木が入っている。
「マルタ……ありがとう。大事にするわ」
シエラはそれを胸元にそっとしまい、子どもたち一人ひとりの頭に手を添えた。
エイダが近づき、静かに言う。
「……気をつけて。あまり、無理はしないようにね」
「はい」
「そして、またここへ帰ってきて。この子たちの場所は、あなたの居場所でもあるのだから」
一瞬だけ目を伏せたあと、シエラは小さくうなずいた。
「……それは、嬉しい言葉です。本当にお世話になりました」
もう一度だけニコを強く抱きしめる。名残惜しげな小さな腕を、そっとほどいてエイダに託した。
手綱を取って馬にまたがると、外套が風を孕む。
夜明けの空は、青く、澄んでいた。
――任務の先に待つ現実は、決して甘くはない。
それでも、この朝の温もりがきっと、背中を支えてくれるだろう。
歩き出した馬の背から、シエラは一度だけ振り返る。
子どもたちの小さな手が、そろって空に向かって振られていた。
「……行ってきます」
小さくそう呟いて、シエラは風のなかへと馬を走らせた。
その背中が、夏の光のなかに、静かに溶けていった。




