第18話~《影》、ささやかな午後
翌日。
山を覆っていた濃い霧はすっかり晴れ、宿の食堂には夏のやわらかな日差しが射し込んでいた。
シエラはひとり、窓辺の席で昼食をとっていた。
皿に盛られたスープには、地元で採れた豆や根菜がごろごろと入っている。焼きたてのパンは表面が香ばしく、白身魚には香草のオイルがかけられていた。どれも素朴ながら、丁寧に手をかけられたものばかりだ。
一口ごとに、静かに安堵が広がっていく。
「はぁ……今日も美味しい。幸せ……」
頬がつい緩む。
喉を通る食事が、心のこわばりをほぐしていくようだった。
ただ空腹を満たすためではなく――誰かが生きてほしいと差し出してくれる温もりのようで、シエラの胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
諜報任務の途中では、食べ物はただの“燃料”でしかなかった。
だが今は違う。命をつなぎ、無事に戻り、こうして椅子に腰を下ろせている。それだけで、心の奥にぽつりと、静かな幸福が灯っていた。
「しえらー!」
甲高い声とともに、元気を取り戻したニコが駆けてくる。病み上がりとは思えぬ勢いで、シエラの腰にぴたっとしがみついた。
「また来たの……?」
スプーンを止めたシエラが眉をひそめるが、ニコはおかまいなしに、彼女の膝をぽんぽんと叩いた。
「……食事中だって、分かってる?」
「でも、おひざがいーの!」
「……まったく」
軽くため息をついて、シエラはニコをひょいと抱き上げる。器用に片手で彼を膝に乗せ、もう一方の手でスプーンを持ち直した。
「もぐもぐする時に動かないこと。スープこぼれたら私が怒られるんだからね」
「はぁい」
ニコは嬉しそうにうなずき、満足げに体をシエラの胸元に擦り寄せた。
その様子を少し離れた席から眺めていたマルタとユリオが、思わずくすりと笑う。
「ずるい! 僕も乗る!」
「わたしも!」
と騒ぎ出し、二人もドタドタと駆け寄ってきた。
「ちょ、ちょっと待って……! 私はひとりしかいないの!」
「じゃあ交代っこ!」
「順番にすればいいのよ!」
「そういう問題じゃないんだけど……」
両側から引っ張られるようにして、シエラはあっという間に三人の子どもに囲まれる。
膝の上にはニコ、右腕にユリオ、左腕にマルタ。子ども掛けの完成だった。
「……あのね、私、まだ昼ごはん終わってないんだけど」
「食べていいよ、ね?」
「スープ冷めるよ?」
「……あんたたち、ちょっと優しいのか、ずる賢いのか分からないわ」
呆れたように言いながらも、シエラの口元にはふっと笑みが浮かんでいた。
子どもたちの体温や、遠慮のない甘え方が、不思議と懐かしく感じられる。
そんな様子を、食堂の奥からそっと見守っていたエイダが、穏やかな笑みを浮かべて近づいてくる。
「シエラちゃんって、ほんとにいいお母さんになりそうねぇ」
「……え?」
スプーンを落としかけたシエラが、驚きの表情を向ける。
「……ないです、そういうの。私は――そういう人間じゃないですから」
「ふふ。そう言う人ほど、なるのよ」
「……ないですってば、本当に」
ぼそぼそと否定しながらも、シエラは自然と膝の上の小さな体に目を落としていた。
ニコのまぶたはうっすらと閉じかけていて、指先は彼女の服をぎゅっとつかんでいる。
守られていることを信じて疑わない、その無防備さに、胸が締めつけられそうになる。
「子どもって、よく見てるの。誰があたたかい人か、誰が本当に自分のために怒ってくれる人かってね」
エイダの声は静かで、どこか遠くを見つめるようだった。
「……私は、怒らないです。必要がなければ」
「それも、大事な愛情よ」
返す言葉はなく、シエラはスプーンをそっと皿に戻した。
――未来を語られると、少し怖くなる。
誰かを守ることも、寄り添うことも、できると思えるようになってきた。
けれど、“選んでいい”とは、まだ思えない。
心のどこかでいまだ、過去の呪いの続きを生きている気がしてならなかった。
「……もう、あまりそういうこと言わないでください。困ります」
つぶやくように言いながら、シエラはニコの頭にそっと手を置く。
やわらかく、小さな命――
言葉より先に、その指先が、まだ見ぬ未来の、その柔らかな方角を、そっと撫でるようだった。
――その夜。
シエラの泊まる部屋の窓へ、黒羽の鳥が音もなく舞い降りるのだった。




