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第15話〜《影》、追う

 夜明け前。

 まだ深い藍色に包まれた空の下、シエラは静かに身支度を終えた。


 新緑色の外套を羽織り、腰の剣帯には二本の剣を携える。

 ひとつは日頃から使い慣れたショートソード。もうひとつは、柄と鍔を重厚な革ベルトで黒鞘に巻き付け、封印されたままの――呪われた剣。


 いざという時のための備え。だが、封印された剣を抜くことは、できる限り避けたいと心に誓っていた。


 山は人の領域ではない。日の出前の森や岩場には、夜の支配者――魔物たちがまだ息を潜めているかもしれない。


(なるべく戦わずに済ませたい……けれど、襲われれば斬るしかない)


 覚悟を固めて、階下へと向かおうとしたその時、階段を駆け上がる足音が激しく響いた。


「シエラさんっ! ユリオが……いないの!」


 慌てふためいた様子で、マルタが駆け込んできた。目は潤み、肩で息をしている。


「……ニコじゃないのね?」


 最悪の想像が頭をよぎったが、マルタの言葉にシエラはすぐに切り替えた。

 だが、次の言葉に胸がざわついた。


「い、家にいないの。部屋にも、どこにも。戸も少しだけ開いてて……これが、机に……!」


 マルタが震える手で差し出したのは、小さな便箋。しわくちゃで、ところどころインクがにじんでいた。


 シエラはそれを受け取り、目を細めながら文字を追った。


『ニコのために くすり とってくる』


 稚拙な筆跡。子供らしい必死の決意がにじみ出ていた。


「……あの馬鹿……っ!」


 悔しさと焦りが入り混じった声で呟き、紙を握りつぶした。


「マルタ、すぐにエイダさんに伝えて。私は山へ行く。あなたたちはニコのそばにいて」


「で、でもユリオは……!」


 マルタの顔は不安で強張っていた。


「大丈夫。必ず連れ戻すから」


 そう言い切って、シエラは駆け出すと勢いよく戸を開けた。


 まだ冷たく澄んだ朝の空気が肌を刺し、草木の露が足元を濡らす。


 彼女の足取りは一切の迷いを見せず、山裾に広がる暗い森の方角へとまっすぐ踏み出していった。



 *  *  *



 冷たい風が、森の木々をざわめかせていた。


 山の裾野に差しかかる頃、夜明け前の空はまだ森に闇を落としており、かすかな星明かりしかなかった。

 だが、シエラの目はその薄闇にすでに慣れていた。気配を読み、空気の流れを掴み、自らの足音すら抑えて進む。


「……ユリオ……」


 そのつぶやきは、霧に溶けるようにかすかだった。


 人の気配などない、夜明け前の山。代わりに漂っているのは、湿った土と動物の息づかいのような、得体の知れない気配。

 魔物の巣とまではいかずとも、人里を離れた山野には時おり、獣のような魔性が入り込むとされている。


 ――子供ひとりで来られる場所ではない。


 だが、足元の小道には確かに痕跡が残されていた。


 小さな足跡。浅く、まだ新しい。落ち葉の上を慎重に進んだ跡だ。


「……分かってる。ちゃんと考えて歩いてる。けど……」


 途中、枝に引っかかった小さな布切れ。ユリオの着ていた上着のものだろう。

 下草の陰に覆いかぶさるように残されたそれを、シエラはそっと拾い上げ、胸の奥で呼吸を整えた。


「……お願い、間に合って」


 雪解け水が、崖下へと細流となって流れていた。夜露に濡れた斜面は滑りやすく、木の根に足をかけなければ立ってもいられない。

 それでも、苔むす岩肌には、しがみつくように残された細かな手跡があった。


 ――彼は、進んでいる。


 だが、身体はまだ幼く、登攀の技術もない。いつ滑落してもおかしくない道だった。


 そのとき、風がざわめきを運んできた。


 ただの風ではない。


 ――異臭。


 血と、濡れた毛皮の匂い。腐敗と獣が混ざり合ったような、野生とは異なる不快な臭気。


 シエラは片膝をつき、手を地に触れて気配を探った。視線を走らせ、耳を澄ませる。


 ……低い唸り声。


 谷を挟んだ向こうの斜面、木々の間に、黒い影が動いていた。


「……やっぱり、いたか」


 それは《森狼(もりろう)》――三つ目を持つ中型魔獣。単体ではさほど脅威ではないが、群れれば旅団を一夜で壊滅させる獣種。

 風下にいたため、まだシエラの存在に気づいていない。だが、その鼻は別の匂いに引き寄せられていた。


 ――その先に、ユリオがいる。


「……!」


 シエラは身を低くして駆け出した。音を立てず、空気を裂くように走る。

 生い茂る枝を斬り払い、岩の上を飛び移り、息も足音も殺して獣の背を追う。


 やがて、木々の合間に小さな空間が現れた。


 陽が昇る寸前の薄明かりが差し込み、そこにいたのは――ユリオだった。


 膝をつき、顔を伏せる少年。その前には、低く唸る《森狼》が一体。

 嗅ぎ慣れない子供の匂いに警戒しているのか、まだ襲いかかってはいなかった。


「動くな……ユリオ……」


 シエラは囁くように呟き、静かに左手で鞘を支え、右手を剣の柄へと添える。

 金具の外れる音が微かに鳴る――


 鞘走りの音はなかった。

 黒鞘を滑る感触と同時に、腕が勝手に振り抜かれていた。

 ――まるで剣に導かれるように。


 森狼が牙を剥き、少年へ飛びかかったその瞬間、真紅の閃光が走る。


 一閃。

 振り返った獣の首が、空を舞っていた。


「ッ、ハァ……ハァ……」


 荒い息が喉を震わせる。

 助けられた安堵よりも先に、手の中にある剣の重みが胸を刺した。


 ――やはり、この剣を使ってしまった。


 その事実を噛みしめながら、シエラは苦々しく剣についた血を払い、黒鞘へと押し込んだ。


 ユリオはその場にへたり込み、怯えたようにシエラを見上げた。

 だがその目には、涙とともに、確かに残っていた。


 ――強い意志が。


「シエラ……姉ちゃん……」


 黙って彼を見つめるシエラに、ユリオは安堵に顔を歪めながら言葉を継ぐ。


「……ごめんなさい。でも……ニコを……」


 その言葉を遮るように、シエラはユリオの頭をそっと抱き寄せた。

 責める言葉は一つもない。ただ、確かに彼の身体を包み込むように抱きしめていた。


「……わかってる。えらいよ、ユリオ。でも……今は一緒に帰ろう」


 その声は、彼の母のように優しく、温かかった。


 やがて、東の空が静かに白み始める。


 ――この山のどこかに咲いているはずの、“ヤシェナの花”。


 命をつなぐ希望を、まだ探さなければならない。


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