第13話〜《影》、子守りをする
ミリュエールの町に、陽が傾きはじめていた。
石畳に西日が落ち、家々の屋根に金色の光が差し込む。宿の中庭では洗濯物が風に揺れ、どこか湿ったハーブの匂いが漂っていた。
「しえらー、だっこー!」
ぱたぱたと裸足で駆けてきたのは、宿の三男坊――ニコ。まだ四歳の彼は、よちよちと腕を広げてシエラにまっすぐ突進してくる。
「ニコ、また……? ああ、もう」
しゃがんでニコを抱き上げる。くったりと身体を預けてくる小さな重みに、自然とため息が漏れた。
「子どもは……面倒くさいな」
そう口にしながらも、背中を軽くぽんぽんと叩いてやる。
「それ、絶対優しい人が言うやつだよね」
呆れたような声がして、振り返るとマルタが麦の皮を剥きながらこちらを見ていた。
十二歳とは思えないほどしっかり者で、弟たちの相手も手慣れたものだ。宿の手伝いにもすっかり馴染んでいる。
「言っておくけど、抱っこを嫌がって愚図られる方が面倒なの」
「でも、ちゃんと抱っこしてるじゃん」
マルタの冷静な一言に、シエラは反論できず視線を逸らす。
そのとき、ニコの額が頬に触れた。
(……あれ?)
「ちょっと熱い?」
慌てて抱き直し、額を確かめる。やはり熱い。明らかに、いつもより体温が高い。
「ニコ、走ってたの? マルタ、何か食べさせた?」
「朝にパンとミルク。昼は……冷めたスープかな」
マルタが少し眉をひそめて答える。
「暑いのに外で遊んでたからじゃない? ユリオがまた“連邦を守る剣士ごっこ”してたし」
「えーっ、僕は悪くないよ!」
不満げな声で割り込んできたのはユリオ。八歳のやんちゃ盛りで、削った木の枝を腰に差し、サディア連邦国の兵士に憧れている少年だ。
「まぁ、シエラちゃん」
そのとき、軒先から、洗いたてのリネンを詰めた籠を抱えて現れたのは、宿の女主人――エイダだった。
背筋のすっと伸びた中背の女性で、編み上げた髪には小さな布帽子、腰には分厚い麻布の前掛けを巻いている。
「今日も子どもたちの相手してくれてるのね。ほんと、助かるわぁ」
そう言って、ふんわりと微笑む。
目元に刻まれた柔らかな皺。その笑顔には、どこかほっとするような温もりがあった。
未亡人と聞いたとき、シエラはなんとなく納得した気がした。
「ニコ、少し熱があるみたいなんです」
「まあ、それは大変。すぐ薬草を煎じましょ。奥の戸棚に干したペリュリ草があったわ」
「あの、私が……」
「いいのいいの。シエラちゃんは、だっこ係でお願いね」
にこにこと笑って言うエイダに、シエラは肩をすくめてみせた。
「……子どもの相手って、重労働ですね」
「そうよぉ。でも、そのぶん夕飯はしっかり用意してあるからね。今日はサービスよ」
「ほんとですか。……いえ、ありがとうございます。助かります」
丁寧に礼を述べつつも、内心では――
(……っしゃ。助かった)
思わず心の中で拳を握る。
(活動費の送金が来るまで、あと五日はかかる。食費が浮くのは、本当にありがたい)
諜報活動は見えない出費の連続だ。
薬品、飛び道具、携帯食糧。毒消しや魔石、札――いざという時に備えて、変装用の衣類や小道具も必要になる。宿代ひとつとっても、綱渡りだった。
エイダは、そんなシエラの事情を知る由もなく、変わらず朗らかに笑っていた。
「……あの、今度、お礼に庭の手入れくらいはしますから」
「まあ、うれしいわ。でも休養で来てるんでしょ。あんまり無理しないでね」
そうふわりと返すエイダの声には、柔らかくて乾いた強さがあった。
子どもたちの母であり、宿の主として日々を回す女のたくましさ。だがそれを、彼女は決して声に出さない。
(この人……見習うところは、あるかもしれない)
ニコの背中をぽんぽんと叩きながら、シエラはぼんやりと思った。




