第12話〜《影》、休養する
サディア連邦国領の町、ミリュエール。
山裾に広がるその町は、前線からわずかに外れた穏やかな場所だった。濃い緑と岩肌が入り混じる起伏のある地形。谷間には澄んだ川が流れ、小麦畑や家畜小屋がその川沿いに点在している。
宿は町の南端――鐘の音がかすかに届く、小さな教会の近くにあった。白い塗り壁に木の格子窓。手入れの行き届いた建物だ。庭には季節の花が咲き、洗濯物が風に揺れている。
その宿の一室。清潔な寝具と、香草の香りが染みついたリネンの上で、シエラは仰向けになり、ただ黙って天井を見つめていた。
ここに辿り着いて、初めて迎える朝だった。
「……信じられない」
異様なほど静かだった。
あの十日間。起床の合図とともに鳴り響く角笛、兵士たちの怒号、武器の手入れの音。いつもなら、それらが一斉に飛び込んでくる時間のはずなのに――
「……鳥の声しか、しない……」
ぽつりとこぼれた言葉は、誰に聞かせるでもなく空気に溶けた。
ごろりと寝返りを打ち、うつ伏せになって枕に顔をうずめる。くしゃり、とリネンの柔らかな香りが鼻をくすぐる。
屋根がある。鍵がかかる部屋。柔らかな布団。誰かが用意した朝ごはんの匂い。
「剣を抱えての仮眠じゃない朝なんて……どれくらいぶりだろう」
壁際に立てかけた剣たちをちらと見る。
昨夜、枕元に置くことすらしなかった。手を伸ばそうともしなかった。
背中に当たるシーツはふかふかで、体温を残している。
つい昨日まで、湿った地面や岩の上で眠っていたとは思えない。
(任務……終わったんだ)
その実感が、じわじわと胸を満たしていく。
気が抜けた、というより――抜けてしまったのだ。完全に。
(もう、何もしたくない)
それは怠けではない。極めて正常な反応だった。
諜報組織“影”の諜報員として過ごした、張り詰めた日々。ずっと、糸の上を歩いているような時間だったのだから。
ふと、思い出すのは――あの声。
(……ずるい声)
胸の奥で、泡立つような感覚が広がる。
あの夜、森に響いた低く静かな声。まだ、耳の奥に残っている。
自分の耳は、“聞こえる”。
あの声の奥にあったもの――
わずかに垣間見えた、彼の本質。
それが何かも、どうして感じ取れたのかもわからない。ただ、あの瞬間――ほんの一瞬、胸のいちばん奥が、微かに疼いた。
思わず、眉が寄る。
「……寝る。あと三日くらいは、寝る」
そう呟いて、ふたたび枕に顔をうずめた。
報告書は出した。風呂にも入った。洗濯も済ませた。もう、何もすることはない。
次の指令が来るまで、この静かな町でただ眠るだけ。
その贅沢を、今はためらいなく享受する。
(夢も、見ないといいけど)
目を閉じた瞬間、扉の向こうから、廊下を駆けていく足音が聞こえた。
(誰かの、日常の音……それだけで、こんなに安心するなんて)
その音に耳を澄ませながら、シエラはほんの少し笑った。
そして再び、深く、静かな眠りに落ちていった。




