第11話〜《影》、ずるい声を想う
『……近くにいるのだろう?』
――その声に、心臓が跳ねた。
だが同時に、背筋を冷や汗がつたった。風が吹いたわけでもないのに、全身に薄い震えが走った。
低く、落ち着いていて、澄んだ声だった。
だが、それは湖面のように穏やかではない。
深海のように底知れず、何が潜んでいるかも知れない――そんな声。
(……あんな声、なんだ)
彼の名も、行動も、戦果も、すべて知識として頭に入っていた。
何より、あの残虐性――
報告書の行間に滲んでいたのは、畏れと嫌悪と警戒の連なりだった。
“血塗れの白狼”の所業を、何百字もかけて描いた冷ややかな文面が、記憶の中に刻まれている。
だというのに。
声ひとつ聞いただけで、その全てが霞んだ。
あの声には、奇妙な説得力があった。
語気は強くないのに、逃れられない。
耳に残るようでいて、心の奥底に落ちていくような、そんな響き。
あのような戦い方をする男に、たとえ皇族という肩書きを差し引いても、なぜあれだけの騎士たちが従うのか――
本来なら、理解できないはずだった。
だけど今は、ほんの少しだけ、わかる気がした。
(……ずるい声)
シエラは歯を食いしばり、木陰からそっと身を引く。
森が揺れるような、ひどく静かな中、音ひとつ立てずにその場を離れた。
(……気づかれた。でも、姿は見られていない)
それでいい。
今回の任務は、接触ではない。観察し、確認し、無事に戻ること――
それだけが目的だ。
そう自分に言い聞かせながら、視線を天へ向ける。
雲間から、月がほんの少しだけ顔を覗かせていた。
さっき、あの声が降ってきたときと、同じ光だ。
その月の光を背に受けながら、シエラは耳を澄ませた。
やがて、十分に距離を取った小高い丘の上。
木々の切れ間に腰を下ろしたシエラの肩へ、小さな影が舞い降りた。
それは黒羽の鳥――諜報組織“影”の連絡鳥だった。
気配に気づいた瞬間、シエラの肩がわずかに揺れる。
「……来たか」
そのひと言に、ふっと安堵の色が混じる。
張り詰めていた緊張が、唇の端のかすかな緩みにほどけていった。
鳥の足から小さな封筒を外し、慣れた手つきで細紐を解く。
目を走らせた報せは、簡潔だった。
『任務期間終了とする。速やかに離脱し、現状を報告せよ。』
ルーからの正式な指示書。その末尾には、いつものように手書きの追記が添えられていた。
『定期報告もご苦労様でした。カーナ騎士皇国領から離れ、サディア連邦国の前線から外れた町――《ミリュエール》にて、暫し休養を取りなさい。』
その一行を目にした瞬間、シエラは長く、ゆっくりと息を吐いた。
「……やっと、か」
かすれた声が喉の渇きを知らせる。身体の芯まで、すっかりと疲れ切っていた。
十日分の疲労が、いまになってどっと押し寄せる。
「十日……長かったな」
ぽつりと漏れた言葉のままに、仰向けに寝転がる。
手のひらで額を覆い、そっと目を閉じた。夜風が草の匂いを運び、肌を優しく撫でていく。
昼夜を問わず潜伏し、息を潜め、観察し、少しずつ距離を詰め、戻って、記録して――また潜る。
睡眠は、ほんのわずかな仮眠だけ。
その繰り返しだった。たった十日とは思えないほど、濃密で、張り詰めた時間。
「お風呂に入りたい……まともな食事も、着替えも……清潔なシーツと、ふかふかのお布団も……」
ひとつ口にするたび、次々に欲がこぼれていく。
任務中には決して見せない、本音が滲んでいた。唇の端が、ふっと緩んだ。
今回の任務は、異例だった。
一国の皇子を――ただ“観察せよ”という指令。
しかも、対象は“血塗れの白狼”――カーナ騎士皇国皇子、ルカイヤ・カーナ。
呪われた魔道具の使用有無。それが主な調査項目だった。
けれど、この十日間で彼がそれを使った形跡はない。
(使わなかった。あるいは、使う必要がなかった……)
冷静にそう結論づけながらも、胸の奥に引っかかるものがあった。
(……なんで、あんな声が、耳に残ってるんだろう)
森に響いた、あの声。
名指しされてすらいなかった。ただの呼びかけ――なのに。
瞬間、背筋が凍った。心臓が跳ねた。
忘れようとしても、あの一瞬だけがずっと頭から離れない。
「ずるい……ほんとに、ずるい声」
ぽつりと漏れた言葉に、自分で眉をひそめる。
「……何言ってんだ、私」
小さく頭を振って、思考を打ち消した。
それでも、胸の奥にはまだ、得体の知れない脈動が残っていた。
それが恐れか、警戒か、興味か――それとも。
「考えるのは……後でいいか」
立ち上がりながら、シエラはまた小さく息をつく。
任務は終わった。ただ、それだけで今は充分だった。
報告を済ませて、湯に浸かり、食事をして、泥のように眠る。
次に動くのは、それからだ。
彼の声の残響も、時間がきっと洗い流してくれる。
そう思いながら、シエラは足元の闇へと、静かに背を向けた。




