第10話〜《白狼》、戯れる
森の静寂は、心地よかった。
焼けた鉄の匂いも、怒号も、血の温度も――すべてが夜に溶けて、消えていく。
だからこそ、わずかな“異物”が際立つ。
(……やはり、いるな)
野営地の外れ。
夜営に入り、兵たちが気を緩めるその傍らで、気配は消えない。
風の通りも、鳥のさえずりも、枝葉の揺れも、すべてが正常であるにもかかわらず――そこに、たったひとつ混じる異物。
“人ならざる慎重さ”を纏った、誰か。
ルカイヤは音もなく歩いていた。
足音を消すのではない。呼吸さえ抑え、己の存在ごと、森に溶かしていく。
(こちらの動きに気づいているか……否、恐らく――)
“気配を察知されている”ことには、まだ気づかれていない。
完璧な潜伏のつもりだろう。だが、それは――生の底を知らぬ者の慢心だ。
ルカイヤは鎧を脱いだ軽装の、黒衣のまま木々の間を縫って進む。
その姿は、狩人というより、まさに“獣”そのものだった。
木々の影の奥に、動かぬ気配がある。
(……女、か)
背丈。重心の置き方。息の質。
姿は見えない。だが、わかる。
以前から感じていた“あの気配”――間違いない。
この女が何者なのか。何を目的にこちらを伺っているのか。
……その答えは、どうでもよかった。
――ただ、確かな“存在”がそこにあることが、妙に愉しかった。
ルカイヤは、まっすぐに声を投げた。
「……近くにいるのだろう?」
返るのは沈黙。
けれどその静けさには、確かに“動揺”が混じっていた。
面白い、とルカイヤは喉奥に笑みを潜ませた。
「黙ったままで構わん。姿を見せずともよい。だが――」
雲が流れ、わずかに月が覗いた。
その光が森に影を落とす一瞬、女の気配が、ぴたりと止まる。
気配を殺した。
こちらの“性質”を察し、“ここが狩場ではない”と見切ったのだ。
(本当に、いい目をしている)
ただの間者ではない。
怯えながらも、冷静さを失っていない。
「気づいていないとでも思ったか。ずいぶんと慎重に歩いていたな。……まるで獣のように」
挑発ではない。ただの、事実の指摘。
その反応を見ること自体が、心地よかった。
(……ここで飛びかかってきたら、つまらんと思っていたが)
仕掛けてこない。逃げもせず、ただ沈黙する。
――よく訓練されている。
この森でこの女を捕らえることも、できなくはなかった。
だが、“今”である必要はない。
“こちらが気づいている”と、知らせた。
それだけで――今夜は充分だった。
(……今はまだ、戯れでいい)
ルカイヤは背を向け、静かにその場を離れていく。
闇に紛れ、気配を消し、森の中へと溶けていった。
背後の気配もまた、風と共に静かに消えていく。
互いに姿を見せることはなかった。
それでも確かに、この森の夜の底で――“何か”が交差した。
それだけで――ほんの少し、満たされた気がした。




