第9話〜《影》、嫌気がさす
サディア連邦国軍による農村の防衛戦――
あの丘陵地帯での戦いは、思い出すのも嫌になるほど凄惨だった。
サディア軍は兵の三割を失い、戦線は崩壊。撤退を余儀なくされる。
戦場には、果てしなく屍が並んでいた。腸臭と鉄の匂いが入り混じり、風がそれを撫でて運ぶ。
そして――その死体のほとんどは、サディア軍側の兵士だった。
なかでも、半数以上をルカイヤ・カーナが一人で斬ったのではないか――と錯覚させるほど、彼の手による殺戮は圧倒的だった。
そして、十日目。
体勢を立て直したサディア連邦国軍との二度目の衝突が発生した。
素早い決断と移動で、前線を押し返そうとしたサディア軍。
だが、それは蛮勇に終わった。
ルカイヤは、あの体躯で信じがたい速度と剛力を両立させていた。
重装備の敵将すら、軽く捻るように首を刎ねていた光景――いまだ脳裏に焼き付いて離れない。
「恐ろしい」という言葉では、到底足りなかった。
“人を殺すために生まれた”。それは比喩ではなく、まぎれもない現実に思えた。
敗走するサディア軍を深追いすることなく、その日のうちにカーナ騎士皇国軍は森に本営を設けた。
(……呪具の兆候は、今回も見られなかった)
どちらの戦闘においても、呪いの魔道具の兆候は確認されていない。
だが、それでも彼の戦いぶりは――“異常”だった。
もし、それが素の実力なのだとしたら……なおさら厄介だ。
(まだ……終わらないか)
黒いフードを深く被り、月明かりを反射する金髪を隠して。
気配を消し、森に身を潜めながら、シエラは小さく息をついた。
任務は継続中。
戦地の変化と、ルカイヤ・カーナの行動記録――あくまで接触は禁止、観察のみ。
(……早く帰りたい)
心の中だけで、無表情にぼやく。
だが、そう思えば思うほど、この任務の終わりは遠く感じられた。
先の戦闘の記憶が、頭をよぎる。
悦に興じ、多くの兵士を屠ったルカイヤの姿。
あれは、本当に――
(化け物みたい……)
思い出すだけで、肩が強張る。
あれは、戦っていたのではない。
“狩っていた”のだ。
生を刈り取ることに、何の感慨も抱いていないような、あの目。
――けれど。
それは恐ろしいという感情よりも、どちらかと言えば「興味」に近かった。
怖くないと言えば、嘘になる。
それでも。
ふう、とシエラの口元から静かに吐息が漏れた。
今、彼女はルカイヤの本隊が野営を張っている森の外縁。
木々の影に身を隠している。
偽装は完璧。風向きも計算し、足音も残していない。
それでも――
(……これ以上近づくのは、危険)
肌が教えてくる。
視線の届かぬはずの闇の中に、何かが蠢いているような気配。
ルカイヤの嗅覚。
それは、もはや訓練や技能といった枠を超え、“獣”の域にある。
(この距離でも油断はできない。あの男は……)
異質だ。
人の理では測ってはいけない、何か別の法則で動いている。
本来であれば、もっと近づき陣地内部を探る必要がある。
呪具の所在、戦略指令の断片、兵士との会話から得られる情報――収集すべき材料はいくらでもある。
カーナ軍本隊を監視して、すでに十日。
そろそろ任務終了の報が届いてもいい頃だ。
そのときだった。
――風が、止んだ。
月がわずかに傾き、葉の影が一瞬揺れる。それと同時に、背筋を冷たいものが撫でていく。
(……動いた)
勘ではない。
これまで幾度となく命の境を越えてきた経験が、確かに告げていた。
ルカイヤ・カーナが、野営地を出た。
見張りの兵が、わずかに姿勢を正す。だが、誰も止めようとはしない。
――この森で彼に言葉をかけられる者など、一人もいない。
そんな沈黙が、空気を支配していた。
やがて、木々の向こうから足音が近づいてくる。
湿った土を、軽く踏みしめる音。
だが、それは不思議なほど“重さ”を感じさせなかった。
“音を消している”のではない。
“音にならない”歩き方――。
その異様さに、思わず胸の奥を握られたような感覚が走った。
(……信じられない。あの体で……)
昼間の戦場で、あれほどの剛力を振るっていた男が、
今はまるで、夜の森に溶け込む狩人のように歩いている。
――いや、もはや人ではない。
獣。それが最も近い。
音は、確実に近づいてくる。
姿は見えないのに、空気が変わる。
匂いも音もないのに、近くにいるとわかってしまう。
息を詰め、気配を殺す。
限界まで集中し、動かない。
(……近づきすぎた。まずい)
気配は完璧に隠していた。そう思っていた。
けれど、直感が警告を鳴らす。
「……近くにいるのだろう?」
思考が、一瞬止まった。
空気が震えたような錯覚。
それは、ルカイヤ・カーナの“声”。
想像していたよりもずっと低く、静かで――抑制された声。
だが、そこには確かに愉悦が滲んでいた。
「……黙ったままで構わん。姿を見せずともよい。だが……」
月が薄雲に隠れ、また現れ、光の角度がわずかに変わる。
その隙間から、一瞬だけ姿が見えた。
白銀の鎧を脱ぎ、簡素な黒衣をまとった長身の男。
ただ立っているだけ。
なのに、空間ごと押し潰されるような重圧があった。
無防備に見えるのに、隙はまるでない。
むしろ――さらに深い“罠”にしか思えなかった。
ただの兵士なら、今を好機と見るだろう。
だが、シエラは違う。
(囮……誘ってる)
ここで動けば、“狩られる”。
そう、直感が告げた。
この男は、気づいている。
だがそれ以上に、こちらの反応を――待っている。
「気づいていないとでも思ったか。ずいぶんと慎重に歩いていたな。……まるで、獣のように」
シエラは膝に力を込め、喉の奥で息を殺した。
その言葉には挑発の色はなかった。ただの“観察”だった。
目には見えぬ何かが、肌を這うようにしてこちらを探ってくる。
静寂。
唇を固く結び、静かに後退の準備を整える。
これ以上の接触は、任務違反。
そして――これ以上、あの声を聞いてはならない。
なぜなら、あの声には“引き込む力”があった。
凶暴さの奥に潜む、理性と愉悦。
狩る者が、獲物との対話を楽しむような声音――。
(……こんな男、知らない)
恐怖とは少し違う。
だが、理解してはならない。
この男の本質に触れてはいけない――
本能が、そう告げていた。
シエラは気配を溶かすように、森の闇へと身を滑らせた。
ルカイヤの視線がどこまで追ってきているのか、それは……わからなかった。




