第1話~《影》、森を駆ける
森が、騒がしい。
揺れる梢、ざわめく鳥たち。夏の陽を透かす葉の隙間を、鋭い視線と殺気が突き抜けていく。
その中を、一人の女が駆けていた。
ワイヤーを巧みに操り、地を蹴り、枝を蹴り、幹を駆け上がっては空中を跳ぶ。その身は軽く、動きはしなやかで迷いがない。新緑色の外套の裾が翻り、燻んだ淡金の髪が風に踊った。
女の名は──シエラ。ただのシエラだ。
中央大陸にあるファティマ女王国所属、諜報組織“影”の一員。
今その名も知らぬ者たちに命を狙われながら、東の大陸、カーナ騎士皇国の森林地帯を駆け抜けている。
(ピンチはチャンス、なんて。誰が言ったのかしら。空気、読んでほしいわね)
心中で皮肉を吐きながら、シエラは高枝へ跳躍し、手首の手甲から伸びるワイヤーの巻き取りを一気に強めた。木の幹を蹴りながら、次の枝へと滑るように移る。追ってくる足音は複数。しかも、重装にもかかわらず速い。
視線を後方に走らせる。木々の陰を縫うように迫る、黒ずくめの兵士たち。その胸当てには、血染めのような赤で彫られた狼の刻印。──カーナ騎士皇国の斥候部隊だ。
(……カーナ騎士皇国の部隊とか、最悪)
シエラは小さく歯を噛む。女ひとりが森を歩いていたというだけでこの反応。ずいぶんと疑い深い。──いや、正しい。
今日の任務は潜入。地図の写しと境界線の更新情報、それだけのはずだった。
(簡単な仕事のはずだったのに)
だが、状況はもはや任務どころではない。
再びワイヤーを射出し、木から木へと滑空する。手甲に内蔵された特殊機構は、魔導式の補助具。誰にでも扱えるものではないが、シエラにとっては自分の手足も同然だった。
上質な長靴が枝を踏む音すら、かすかだった。彼女の身体は、戦うよりも逃げることに適していた。華奢に見える肢体には、無駄な脂肪はなく、鍛え抜かれた筋肉が柔らかく、しなやかに動いている。
息はまだ浅く、体力には余裕がある。
やがて、気配が迫った。
後方から一人、二人、三人──音を立てずに間合いを詰める影がある。
斥候とはいえ、森での動きは洗練されていた。さすがは精鋭を多く抱えるカーナ騎士皇国の兵といったところか。
だが、シエラの碧眼に焦りはなかった。
(……追いつかれる。まあ、当然ね)
想定の範囲内だ。問題は、どう対処するか。
ここで彼らを殺せば、戦火に油を注ぐことになる。今、カーナ騎士皇国は南方の新興勢力──サディア連邦国との武力紛争のさなかにある。その最中、森の中で自国の兵が謎の勢力に殺されれば、疑念がどこに向くかなど想像に難くない。
戦場ではない。あくまで「斥候任務中の接敵」。その一線を越えるかどうかで、政治の温度は変わる。
(けど、生かしておけば私の存在が露呈する。……それもまた、同じくらい厄介)
シエラは腰に手をやり、剣帯を確認した。そこには二本の剣が収まっている。
一本は癖のない無銘のショートソード。手に馴染む実用剣だ。
もう一つは、黒い鞘に封じられた異質な剣。柄と鍔は幾重もの革ベルトで鞘とともに厳重に縛られ、封印という言葉が過剰でない存在だ。
視線だけでそれを確認し、指先が一瞬、黒鞘に触れ──そしてすぐに離れた。
(……これは、使いたくない)
ショートソードの柄に手をかけ、音を立てずに引き抜く。その瞬間──木々の影から、兵のひとりが飛び出した。
間合いを詰める音。剣の刃が陽を弾く。
シエラは身体を沈め、相手の勢いを利用して足を払う。体勢を崩した兵の背後にまわり、柄で後頭部を打ちつけた。鈍い音がして、男が倒れる。
「囲め! 一気に──!」
「こいつ、速いぞ!」
他の兵も躊躇なく襲いかかってくる。剣を抜き、森の中で連携を取りながら、数で押そうとする動き。
だが──シエラの動きは、そのすべてを凌駕していた。
一歩踏み込む。一人の腕を捻り、肘を逆に曲げるようにして刃を奪う。
もう一人には柄の底を喉元に叩きつけ、呼吸を封じる。
木の幹を蹴って身を浮かせたかと思えば、背後の兵に着地と同時に蹴りを放ち、巻き込むようにして気絶させる。
ほんの数分で、全員が沈黙した。
静寂が戻る。だが、森の空気はまだ張り詰めていた。
シエラは息を整えながら、一人ひとりの意識を確認して回る。死んではいない。狙いどおりだ。
外套の内側から、小さな銀色の筒を取り出す。
蓋を外すと、中には細いガラス瓶が数本、整然と並んでいた。
──記憶混濁剤。数時間前後の記憶を濁し、断片的にする薬。
無味無臭。だが効果は確か。
無言のまま、一本ずつ取り出しては、倒れた兵の口をこじ開け、慎重に数滴を注ぎ入れた。
習慣のように、迷いはなかった。
「……見てない。覚えてない。いいわね」
最後の一人に薬を与え終えると、彼女は腰を上げた。短く息を吐き、あたりを見渡す。
風が葉を揺らす音だけが微かに響く。鳥の声も、もう聞こえなかった。
その沈黙の中──シエラは再び、森の奥へと姿を消す。
足跡も、気配も。何ひとつ残さずに。