愛しているのは、海
六月の末であった。
梅雨の雨が止み、雲間から陽が差すと、海は黒ずんで、深く沈んで見えた。
私は、吉蔵という男のことを思い出す。
海で消えた、あの男のことである。
吉蔵は、奇妙な男だった。
毎晩、海の夢を見ては、翌朝、薄い笑いを浮かべながらこう言った。
「白い女が呼ぶんだ。海の底からな。耳の奥に水が流れ込むみたいな声で、『帰ってくるな』って」
私は、酔いの冗談と思って笑い飛ばしたが、彼の目の色は冗談ではなかった。
ある夜、吉蔵はまた舟を出した。
その夜、潮は満ち、風が強く、浜辺には白い泡がびっしりと打ち寄せていた。
私も寝付けず、浜辺の小屋の戸を開けて海を見ていた。
すると、黒い波間に、何かが立っていた。
長い髪が水に溶け、白い顔が、月明かりに照らされていた。
背中の骨が浮き出て、爪は魚の骨のように細く尖り、目だけがまるで火のように輝いていた。
――吉蔵の舟が、その女の足元に吸い寄せられるように進んでいた。
私は喉が渇き、声も出なかった。
足元に冷たいものを感じ、見れば、私の足首にも海水が絡み、藻が這い寄っていた。
その時、確かに耳元で女の声がした。
「……お前も、来るのだ」
翌朝、浜には、空の舟がひとつ。
そして、濡れた麦わら帽子が一つ、舳先にかかっていた。
吉蔵は帰らなかった。
私も、海を見ていると、あの白い女の目が、今も波の隙間から私を見ているような気がする。
陸の上にいても、潮の満ちる音を聞くたびに、爪先から冷えていく。
もはや、逃れられぬのだろう。